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  • 一兩日中、中外に發表 更生新支那との 國交調整具體方針 頭條新聞

    【東京三十日發同盟】政府は東亞新秩序建設に伴ふ日支關係調整の根本方針に關し二十八日の閣議において五相會議の成案を正式決定し二十九日參議會の承認を經たのでこれが今後わが支那事變處理、日支國交調整の根本國策となる重要性に鑑み御前會議を奏請するに決し近衛首相は二十九日宮中に參內天皇陸下に拜謁仰付られ右の旨を內奏した、依つて三十日午前十時半より宮中表御座所において御前會議が開かれ閑院參謀總長宮殿下を始め奉り、軍令部總長宮殿下御代理古賀軍令部次長、近衛首相、板垣陸相、米內海相、池田藏相、有田外相、末次內相、平沼樞府議長、多田參謀次長等出席し天皇陛下親臨の下に政府決定の原案を附議し嚴肅なる空氣のうちに異議なくこれを承認し茲に新支那長期建設に對處する我が不動の國策を決定し正午天皇陸下入御あらせられ滯りなく御前會議を終了して散會した、なほ政府は右決定の內容を一兩日中に中外に發表する豫定である

    社說 長期建設と今後の醫育方針 大陸に進出する醫師養成を提唱 社說


    日支事變は今や第四期戰に移り一に蔣政權の擊滅を繼續し、同時に占領地域の建設に努力を為すべき時期に達した。謂はゆる長期建設に就ては最近幾多權威者の名論卓說續出して、支那大陸經營の方針を示唆してゐるが、イデオロギーに於て一二の差異はあつても、治安維持を前提として農民問題の解決を第一とし、先づ以て最大多數を占めてゐる農民に聖戰の真意を如實に示すべき點に一致してゐる樣に見受られる。然し乍ら治安と同樣に保健施設卽ち社會衞生施設を充實向上せしめて、從來百病流行の地をして萬民安住の境地たらしむべきことを忘れてはならない。

    近來支那に於ても、現代醫學の振興に其範を日本及び歐米に採つて力を致して來た樣であるが、まだ住民の多數は尚漢方醫藥に對する信念强く、勿論漢藥には治效著しいものも少くないし、尚後日の硏究に待つべき有效成分も非常に多いのである。ただ漢方醫學に於ける病理、藥理、診斷法の內には現代科學から觀て荒稽無實のもの多く、かかる概念を以てしては、今後企圖すべき社會衞生を向上發達せしめる上に害が多くて利が少いのであるから、支那大陸に於ける醫育も醫事行政も其重心は云ふまでもなく、現代醫學に置くべきである。ただ治療に際しては治效ある漢藥を隨時臨床に應用すれば、彼等をして安心せしめ得るものと思はれる。

    帝國中央政府の醫育方針は大學令に基く大學教育を理想として居るを以て、千葉、慈惠、日本、新潟、名古屋、京都、大阪、岡山、長崎の各醫學專門學校は逐次醫大に昇格して現在內地に於て醫專は東京、昭和、岩手、九州の四校(女子は略す)を餘すのみで、外地に於ては朝鮮に醫專と臺灣、滿洲各醫大の附屬專門部を有する位になつたのは、主として醫師能力の向上と醫師の過剩を慮つた結果から生じたものであるが、現下に於ては滿洲の經營は勿論、今や支那大陸に於ける占領區域は我國の數倍の廣さに達し尚今後漸次擴大せられる運命にあり、且つ我が人口の數倍の民眾の福利增進を計るには尚吾人の想像を許さない位に醫師を要するは自明の事實である。

    此の新事實に對處する上に、短期間に多數の醫師を要するは論を俟たぬところであつて、長期間を要する大學教育よりも、比較的短期日で修め得る醫專の如き醫育機關の增設と擴張を必要とすべきであらう。殊に南支經營の重點たる臺灣に於ては種種の點に於て他に優れた素因を有するを以て、現在の臺大醫科附屬專門部の一大擴張を要望すると共に、別個に深淵なる學理を究むるよりも、實際醫學を主とした往時の醫學校の如きものを臺北市又は相當施設を有する督府病院の所在地に設立し、支那より留學生を招致して、臺灣學生と共學せしめ、五個年位で小公學校卒業者をして支那新政府の免許を得せしめる醫師を多數に養成すべきを提唱するものである。かくすれば長期建設の根源たる保健問題も解決して、文化施設の目的に達し得るし、島民の大陸進出の機會と正業とを與へると共に、支那留學生の臺灣招致に依つて彼等をして臺灣を通じて正しき帝國の真意を體得せしめ、此が日支提携上の强き結合劑たらしめ得るものと信じて疑はぬものである。

    日支文化提携を目指す 東亞文化協議會開く 昨日東大安田講堂で 頭條新聞

    【東京一日發同盟】日支の新しき堅き文化提携を目指す東亞文化協議會の東京に於ける意義深い初總會は初冬の陽光輝く一日午前十時より東大安田講堂に開催された、會するは會長湯爾和博士、傅增湘氏、日本側佐藤寬治博士、酒井忠正伯其他日支評議員七十餘名、來賓には荒木文相、陸相代理加藤政務次官、外相代理澤田次官等列席、湯會長の挨拶に續いて日本側伊東忠太博士以下二十五氏、支那側江人駿以下九氏を新評議員に推薦、佐藤、傅日支兩副會長の就任挨拶があり引續き外務、文部、陸軍の順で夫夫大臣の挨拶があつて議事に入り左記議題を上程二、三兩日の人文、自然科學の兩分會に於て審議檢討することを申合せて正午閉會した、評議員一行はそれより午後零時半總理大臣官邸の外務、文部、陸軍三相の招待宴に列し更に湯島聖堂に詣で孔子廟を參拜し最後に陸軍第一衛戌病院を訪問聖戰に傷づける將兵を慰問第一日のブログラムを終了した
    議案
    △日本側提出
    一、日支兩國專門學界の連絡提携を密にし之に必要にして適當なる組織を整備するの件二、中國教育機關の創設擴充に關し調查研究し之が整備に付き一層協力するの件
    △支那側提出
    一、東方文化事業委員會の復興を圖るの件
    二、北京に自然科學研究所を設立するの件

    社說 親族相續篇を本島人に適用 特例を設くべき慣習が重要問題 社說


    臺灣に於ける私法上多年の懸案たる本島人間の親族相續に關する法令の制定は從來吾吾は屢屢本紙上にその必要を主張し、また民間識者及び法曹界に於ても、屢屢これを論議してきた問題であるが、ただ當局に於ては容易にこれを立法化する具體案を完成するに至らず、つい本島人の親族相續關係は舊來の慣習に依るといふ不明確な家族生活を今日まで續けてきたわけである。然るに四十年來本島人間に行はるる慣習は著しく推移進化し、殊に大正十二年より民法を本島に施行された結果、親族相續に關する事項を除くの外、民事法令はすべて內地と同樣になつたのである。また爾來本島人の親族相續に關する舊慣も漸次廢れて、僅少の改變すべからざる慣習を除く外其他の大部分は民法規定を條理として裁判上既に引用されてゐるのである故に今日に於ては民法の親族相續篇に多少の特例を設ければ、本島人に適用しても差支へない程度に達したと謂はねばならない。茲に於て從來甚だ困難と思はるる本問題も比較的解決し易くなり、また皇民化運動の熾烈なる最近の趨向に鑑み、一日も早く本問題を解決して島民の日常私法生活關係を明確にしなければならない。

    今度督府當局に於ては、去る廿四日に法令取調委員會を開き、民法の親族相續篇に多少の特例を設けて本島人に適用する具體案を作成することに決定したのは一般島民の齊しく期待する所である。ただ本立法は本島人の日常家族生活を規律する純然たる私法問題であるから、當局は他の政策的立法の如き獨斷主義を採るべきではなく、宜しく島民輿論の歸趨を聽取すべきは勿論、民間法曹界の意向をも十分酌取することが甚だ必要である。故に法令取調委員會に於て法文の草案が出來た時には一應これを公表して、一般世論の批判を聽いた上で、始めて最後の成案を決定すべきことであると同時に、法令取調委員會に於てまだ草案が出來ない今日、法曹界に於ては勿論、島民識者に於ても、務めて親族相續兩篇の特例として存置すべき舊慣の主要事項を檢討し、忌憚なき意見を吐露して、以て法令取調委員會の立案參考資料として提供すべきである。

    試みに親族相續に關して、舊慣上今日猶ほ現存する事項の中、改廢すべき議論を有する主なるものを擧げて見れば、媳婦子の制を民法の養子制に依らしめ、また招夫、招壻の制を民法の入夫婚姻、壻養子緣組制に依らしむるの可否問題、男子なき場合に於ける女子の相續權を當然認むるの可否問題、分頭相續に修正を加へ、長子に次子以下よりも多くの相續分を與へる程度の問題等の如きである。また現存する妾は存置せしめても已むを得ないが、將來は斷然之を認めてはならないことは云ふまでもないのである。要するにこれらの舊慣を廢止すべきものは廢止し、修改すべきものは修改して、務めて今日社會の通念と條理とに合致する理想的成文法を作るべく、立法當局に於て努力すべきことは勿論、また一般島民に於ても率直なる意見を披瀝して、間接的に協力しなければならないのである。

    今度は臨時軍事費 特別會計編成を急ぐ 新規增稅、金融統制を攻究 頭條新聞

    【東京二日發同盟】大藏省では明年度一般會計豫算が二日の閣議で決定を見たので今度は臨時軍事費豫算をはじめ鐵道、通信、外地等の各特別會計豫算に就き關係各省より要求概算書の提出を求めこれが豫算編成を急ぐこととなつたがこれら豫算の編成に依り明年度の公債發行額は當然增加すべく殊に臨時軍事費豫算の如きは長期駐屯消耗資材補填等の必要に基き豫算額、公債額共に激增することが明瞭なる情勢にあるのでこれに伴つて新規增稅及び金融統制強化等の政策が漸次現實の問題として攻究せられることにならうと見られる

    社說 對支策の具體的聲明に期待 社說


    日支事變を契機として帝國は好むと好まざるとに拘はらず既に大陸經營に乘り出さなければならなくなつたが、一體帝國は支那をどうするかといふ事に對しては國內に於てもいくたの意見があるに違ひない。併し帝國としては事變發生以來しばしば聲明した通り元元支那に對しては領土的野心なく、單に抗日蔣政權を潰滅する所の聖戰以外に他意なしと終始一貫して其の方針を發表したのである。

    最近近衞首相からは對支の方針を更に明確に發表され「從來支那の天地が帝國主義的野心に基く列强角逐の犧牲となり、終に其の平和と獨立とを脅威せられつつありし事は歷史に徵して明白であります。日本は今日以後斯くの如き事態に對し根本的修正の必要を認め正義に基く東亞の新平和體制を確立せん事を要望するものであります」と述べられ、帝國の態度を一層積極化したのである。併し言ふ所の「東亞秩序」とは何を指すか之を具體的に示す事が支那の民心を安定せしめるに最も效果ある事と信ずる。

    有體に言へば支那の人民は未だ帝國の真意を充分に理解せざるもの多く新政權に對しても未だ積極的支持を表明せざるもの多多あるを以て此の際蔣政權の側より新政權へ民心を引寄せるには一に帝國の態度に對して多少なりとも危懼を抱いてゐる結果ではないかと思はれる。從つて政府としては層一層と其の真意を率直に具體的に再聲明する事は啻に支那に於けるあらゆる工作に非常なる好影響を與へる許りでなく歐米列强に對しても帝國の堂堂たる態度を以て其の反省を促進し得ると信ずるからである

    言ふまでもなく帝國が支那大陸を經營するには支那人民の協力なしでは到底圓滑に行はれないであらう事は明かであるから、此の際支那國家の完全な獨立を言動によつて之を證明するにあらざれば心ある支那人の協力を得る事が困難である。若し真に日支兩國民が手を携へて東亞の再建に邁進する事となれば歐米列强の惡意的妨害を一顧する必要なく、一路所信を强力に實行すればいい譯である。又かくの如き强き決心がなければ到底東亞再建の大業を為し遂げる事が出來ないのである。

    此の意味から我等は近く近衞首相が對支政策に關して具體的聲明をなさんとする事に對して絕大な期待を持つものである。帝國が數次の聲明を通して益益聖戰の聖戰たる意義を徹底するに從つて支那の民心が益益帝國の公正なる態度に感激するであらうし、之がため蔣政權も愈愈民心を失ひ以て崩壞の一路を辿るものと我等は信じて疑はない

    上海萬華鏡 國際都市の明暗相(一)/陳逢源 海外遊記

    二つの上海
    私の搭乘してゐる歐洲歸りの箱根丸は九月三十日の明け方既に揚子江の吳淞口から黃浦江に入り、空の白み行くに從って秋雨が煙るが如くしとしとと降って來た。右側の楊樹浦方面の工場地帶が多少戰爭で破壞されてはゐるが次第に眼の前にハッキリ浮き出し、左側の浦東に建ってゐる倉庫等も大分爆破された跡が見え出したのでいよいよ現地へたなあといふ感じがムクムクと湧いて來る。
    日本郵船の碼頭から黃浦灘路にあるアスターハウス迄の虹口一帶の市街を自動車の上から一瞥すれば、戰爭で打ち壞された儘のストリートが死骸の如く橫ってゐる所が少なくない。私は一先づアスターハウスを根城として十數年前見覺のある戰後の大上海を探見すべく勇み立ったのである。
    現在上海の中樞區域たる共同租界は西北から流れて來る蘇州河によって二分され、其の下流が黃浦江と落ち合ってゐる少し手前の所に有名な白渡橋即ちガーデンブリッヂが架ってゐる。今回の上海市街戰は蘇州河の北東に當る日本人居留地たる虹口及び閘北方面と共同租界の南方に當る南市一帶に限られ、其の他の共同租界及び佛租界は少しも戰禍にかゝってゐない。
    併し戰後に於ける虹口の復興振りは大したもので日本人が四五萬人も押し寄せて料理屋、カフェー、旅館を中心に雜貨屋、食物屋に至る迄雨後の筍の如く增え出したので此の邊はやがて日本色を以て塗りつぶされるであらう。そこには通貨として日本銀行券を以て使用され邦文の新聞と漢文の親日新聞たる新申報が日支兩國民の間にそれぞれ配達されてゐる。晝は戰闘帽を被ってゐる我が勇ましき兵士を以て埋め、夜は紅燈綠酒の巷からは妖しき流行歌のレコードが流れる如く間斷なく冷え行く秋の宵の空氣に響き亘る。
    宏壯な新亞旅館の樓上には維新政府の要人が大多數尚立籠って每日新市街にある市政府の近くに屹立する中華民國維新政府辦務處へ通ひ、こゝからは時折反蔣親日の宣言を發し同盟通信等の手によって世界各國へ隈なく送られてゐる。
    若しアスターハウスから一足でもガーデンブリッチを渡ればもう一つの上海が臆面もなく橫はってゐる事を發見するであらう。そこには大上海の經濟力の九○%を占めてゐる佛租界を含む共同租界なので、先づビジネスセンターたるバンドの殷盛には眼を見張るであらう。そこには歐米列強を始め我が國の主要銀行會社のビルディングが林立し、國民政府の機關銀行たる中央銀行、中國銀行、交通銀行等も盛んに營業を續け租界內唯一の通貨たたる法幣の發行及び受入れを我が物顏に處理されて行く。更に繁華な南京路まで行けばお馴染の東亞旅館及び大東旅館の掲示板には日本船舶の出入港をワザとオミットしてあるし、街頭で賣ってゐる新聞は新申報の影もなく國民政府の機關紙たる新聞報が每日十六頁も發行し、大美報、華美晨報、導報、上海報等の漢字紙をリードして漢ロ攻略最中の日本軍が如何に多大な打撃を受けつゝあるかをまことしやかに恰かもコーラスの如く一齊に一記事を以て囃し立てゝゐる。
    時恰かもチェッコ問題で歐洲の風雲が頗る穏かならざる最中に、佛租界の當局者が如何なる考へか、大急ぎで租界の防備を施して市民の神經を尖らしてゐる一方、藍衣社か、CC團あたりのテロ行為が維新政府の要人に、又は要人たらんとする親日家に對して尚執拗に行はれてゐる。双十節には支那人街が依然として青天白日旗を以て埋められてゐる一面に、閘北、南市一帶から租界內へなだれ込んで來た避難民がところ構はず路ばただとか、又は事務所の入口の階段に身動きもならず一バイ寢そべってゐて殆ど誰も之を顧みる者がない。以上は單に國際都市たる上海の明暗兩相の一端を摘記する丈でも、始めての旅行者には定めし此の二つの上海に對して必ずや當惑の眼を以て之を眺めるであらう。【寫真はガーデンブリッヂ宏壯なブロードウェイメンション】

    心聲 漢詩

    偕李振南遊頤和園/南都、偕李振南遊頤和園 其二/南都、偕李振南遊頤和園 其三/南都、偕李振南遊頤和園 其四/南都、步炯南先生讀老秋氏新陽關三闋原韻/南都、詠兒玉藤園將軍/夢周、喜文訪歸自鷺門/夢周、勅使街道晚眺/夢周、桃園公園角有福德祠二百年以來香火猶盛當局決毀棄昨日過此見而有感/周石輝、病遣/洪一枝、和韻/周靈峰

    潭州水道を渡河し 龍江を奇襲占領す 我が軍包圍圈を縮小 南支戰線 頭條新聞

    【佛山三日發同盟】敵の軍需輸送路を遮斷すべく二日夜潭州水道を渡河廣洲南方三角地帶に行動を開始した片野、納見、生田、東、片山の各部隊は三日午前三時全く奇襲に依つて龍江の敵を撃破してこれを占領更に其の南方三粁號德及びその西方高地を占據又水上機動隊は水路により東岡南方約十粁西江に臨む甘竹及びその北方約三粁の裏海を占領した各部隊は更に包圍圈を縮少しつつ九江を目指して前進中であるが附近一帶の各部落は盛んに火災を起し砲聲殷殷と轟いてゐる。

    社說 英國の橫車は斷乎一蹴せよ 揚子江航行問題 社說


    揚子江航行回復に關する英國の要求は去月七日米佛二國と共同步調の申入れに對する帝國政府の十四日付の回答に滿足せず十七日の有田外相とクレーギー英大使との會見に際して同大使から不滿の意向を表明し、更らに廿四日の有田クレーギー兩氏會見では公文をもつて正式に抗議的申入れをなし、執拗にその要求を貫徹せんと喰ひ下つてをり、米佛兩國も又英國の積極的態度に便乘して同樣態度に出んとみられてゐる。
    しかも英國船舶は貨物を滿載して上海港に待機し示威的ゼスチユアを示してゐると傳へられてゐるから、今後ともその開放を引續き要求して來るものとみられ、今後の對英米佛折衝の中心題目たらんとしつつある。

    本問題に關し二十九日我現地陸海軍當局が當局談を發表し、作戰軍の立場より揚子江航行再開の時期に非らざることを强調闡明したことは誠に時宜を得たものである。抑抑揚子江の航行は一體誰れが封鎖したか、而して誰れが如何にして之を再び啓開したのか、等等に就ては列國は知らぬ顏をして、自己の權盆擁護、門戶開放等のみを主張し得手勝手な申入れをなして橫車を押さんとするのは實に人を喰つたものであり、我國を侮辱するものである。
    揚子江は云ふまでもなく支那軍が封鎖したものである。各所に閉鎖線を築き、數多の機雷を沈沒又は浮流せしめ、言語に絕する手段を以つてその航行を全く不可能ならしめたのである。我軍は世界戰史にその比を見ない謂ゆる遡江作戰をもつて、頑敵と戰ひ、幾多の犧牲を拂つて軍用水路を啓開したのであることは云ふまでもない。

    揚子江の水路開通は我軍苦鬪の賜物であり又我對支作戰上の生命兵站線であることは我當局談で明らかである。我軍が若しそれを啓開しなかつたならば、少くとも事變中何れの國が揚子江を航行することが出來るであらうか。列國が支那軍の航行遮斷を作戰上の必要として容認してゐる以上、我軍も又軍事上の必要より多大の犧牲を拂つて之れを啓開したことに對しても容認するのみならず、我軍に對してむしろ感謝せねばならぬのである。にも拘らず、支那側の遮斷は默認し、我國が行へば直ちに抗議する。實に人を喰つた話であり、又依怙贔負でもある。英國のこの援蔣態度が卽ち事變を長びかせ、事態の復舊を阻害するものである。若しこれを容認して揚子江を開放したならば蔣政權の後方攪亂分子の侵入、兵器彈藥の奧地潛入は火を睹るよりも明らかである。

    揚子江の開放は英國の援蔣態度が變らざる限り、又蔣政權が屈服して事變が解決しない限りは絕對不可能である。英國の申入は將來に對する希望であるとして、之れを聞き置く程度で十分である。我國とても英國と同樣、作戰遂行の必要がなくなり列國と共に自由に交易し得る事態の速かに到來するのを希望してゐるのである。之れが為めには列國が我國と協力して東洋平和の出現を速かにする以外道がないのである。
    揚子江航行回復は英國の傳統的揚子江政策の推進と重要關聯があり、その在支權益尊重に關する諸懸案の中樞をなすだけに英國は今後も尚執拗に手を換へ品を變へて要求して來るであらうが、我國はそんな理不盡な手前勝手な橫車を相手にする必要なく、斷乎之を一蹴すべきである。而して進んで頑迷執拗なる英國の態度に對し、その反省を促すべきである。

    赤化防衛、東亞安定 列國に要求する帝國の 政治的、經濟的根本理念 頭條新聞

    【東京四日發同盟】帝國政府は十一月十八日付對米回答において所謂門戶解放機會均等に關する帝國の根本的態度を闡明し東亞の新秩序建設の高邁なる民族的理想の一端を披瀝したが帝國の根本的目的は赤化防衛と東亞安定とにあつて右目的の達成の為に帝國の要求するところは
    一、支那の自主獨立の完成
    九國條約その他不平等條約に依つて歐米諸國が支那に課した半植民地的態勢を打破し新らしき支那に完全なる獨立國體制を與へること
    一、日滿支の特殊關係の確立
    赤化防衛の使命を達成し、世界平和建設のため日、滿、支三國は相互連環特殊不可分の關係を確立し世界新秩序建設への一貫としての東亞新體制を確立すること
    の二點にあつて帝國並に列國の支那における經濟的活動の範圍とその基準はこの二眼目の裡に包藏される政治的理念に依つて決定さるべく帝國政府の抱懷する右の範圍と基準は大體左の如きものと思惟される。即ち
    一、第三國の支那における經濟的活動は東亞の赤化防衛の一要素としての新らしき支那の國防的基本產業並に經濟施設の經營の根本的要求に背反しないこと
    一、第三國の支那における經濟的活動は新らしき支那經濟自主權を阻害するが如き政治的性質を有せざること
    一、右二條件を除いた新らしき支那における一般的經濟活動に就ては第三國は均等なる立場に起つて無差別待遇の原則の下に自由競爭をなし得るものとすること

    上海萬華鏡 國際都市の明暗相(二)/陳逢源 海外遊記

    戰禍と歡樂の坩堝
    上海の北停車場より賢山路に亘る閘北一帶の戰跡を見れば、如何に市街戰が激烈を極めたかを知る事が出來る。就中頑丈な商務印書館總廠の傍にはクリークがあり、トーチカもあって市街戰の堡壘として最も理想的な場所であらう。とにかく見渡すところ完全な家とて一軒もなく言葉通りに全く蜂の巢の如くメチャクチャに爆破されてゐる。何しろ精銳を極めた我が軍の陸空、海三方面の立體的攻撃に對して地の利を得たとは言へ、よく二個月餘も支へ得た事は敵ながら死命を盡して抵抗したに違ひない。蔣一派の唱へてゐる焦土抗日の焦土とはかくの如きものだといふ事を實物を以てマザマザを見せ付けられたのである
    私は更に自動車を飛ばして大場鎮へ行く途中に我が臺灣農業義勇團の事務所へ行って熊澤技師に敬意を表すると共に、若き臺灣青年が元氣よく大地に於て働きつゝある實況を見て心強く感じた。此の邊一帶は處々に點在してゐる家屋が多少なりとも破壞され田畑も大部分荒れ果てた儘であるが、江南の平野に縱橫に走るクリークの間に楊柳の並木が平和に眠るが如き景色は何うしても戰亂の跡とは思はれない。江灣にある市政府まで行ったら家屋がポツポツしか建ってゐないのに、矢鱈に大きい道路を先に舖裝してゐるので、私は上海租界の繁榮を奪うとする國民政市の遠大な市街計畫の意氣に觸れざるを得ない。青い瓦の市政府の建物は東洋建築の粹を取入れた瀟灑にして頗る堅固なものだ。一時は敵軍作戰の基地として我が彈雨の洗禮を受け屋根の上にはいくつか大きい孔を明けられたが、それでも尚元の儘の姿勢を完全に保ってゐる事は相當な代物だと言っていゝ。
    私は有名な軍工路から宏大な遠東運動場の傍を通って一先づアスターハウスへ歸るまでは既に四五時間もかゝったので、遂に南市あたりの戰跡を尋ねる時間と餘裕を持たなかったが、今回の事變で閘北程徹底的に破壞した所は先づないさうだ。これ丈悲慘な目に逢はせられたから支那も少しは目が醒めて來ただらうが、若し一たび租界內の歡樂境に足を入れゝば未曾有の戰禍を尻目にかけて意外にも昔に增してなかなか盛んなものだ。此の現象を見て支那の亡國の兆だと浩嘆してゐる者もあれば、支那人はこれ程圖太い神經の持主だからいく度かひどい天災人禍にぶつかっても一向へコたれずに四千年も長い歷史を保ったのだと辯解する者もある。杉山平助氏が戰爭の悲慘さを現地で目撃しながら若し日本へ敵國が攻め寄せて來た時の事を考へた丈でも戰慄を感ずると述懷してゐる事は日本人らしい感覺であるかも知れない。
    とにかく現在の上海では一方に避難民が街頭に溢れ出してゐるのに、他方には華麗を競ふダンスホールを始め、活動寫真、支那芝居、大世界、新世界等ありとあらゆる娛樂機關がいづれも大入り滿員の狀態である。夜の南京路から跑馬場を經て佛租界の一帶はネオンサインの展覽會と言っていゝ位に誠に魔都上海に相應しい光景である。抗日支那と歡樂支那が同じ一つの坩堝たる上海に於て沸き返ってゐる所に支那社會の複雜さがあるだから日本人の尺度を以て支那社會の一端のみを擧げて支那の本體を類推して行かうとするつもりだったら、それこそ非常過誤を犯したものと言はざるを得ない【寫真は上海市政府】

    職業能力の登錄制 明春二月實務開始の豫定 四勅令案、外地も適用 頭條新聞

    【東京五日發同盟】五日の總動員審議會で可決を見た一般國民の職業能力に關する登錄制は諸般の手續を經て來る十五日頃勅令公布の豫定で細目に關する省令は右勅令より遲れる模樣であるがこれが實施に就ては明春一月中に一切の準備を整へ二月より實務を開始する豫定で國營職業紹介所を中心に青年團其他團體の自發的協力に依り申告をなさしめることになつてゐる、然して登錄職種は技術者は鑛山技術者、機械技術者、普通勞務者は金屬工業、機械器具製造工業關係では旋盤工、鑄物工等約六十職種、鑛山關係では採炭夫、支柱夫約十職種、化學工業關係では約二十職種其他交通、通信關係の自動車運轉手、航空機搭乘者等計約百餘種これらの職種に屬する勞務者及び學校卒業者で年齡十六年以上五十年未滿の男子が要登錄者となるのであつて氏名、生年月日、本籍、居住の場所、兵役關係、學歷職業に從事する者に就ては其の職業名、就業の場所、職歷及び技能程度、給料又は賃銀、配偶者の有無及び現に扶養する者の數、健康狀況、總動員業務に從事する場合の希望等を職業紹介所に申告しこれを登錄することとなりまた一定の事項に關してはその都度移動の屈出をなさしめ常時全國的に主要職種に屬する勞務者の分布配置狀況を明確にし得ることとなるのである、これに要する經費として囊に第二豫備金よりの出支を得た、また技能程度は一應標準を示して申告せしめ必要に應じて檢查することになつてゐる、尚五日可決を見た四勅令案は何れも外地にも適用されることになつてゐる

    社說 人民と接觸する官吏の心得 接客業者の健康診斷に因んで 社說


    政治を行ふに當つて治德のもつとも重要視さるべきことは曾つて本欄に於て指摘した通りであるが治德のみあつても治術これに伴はなければ亦完全なる政治を行ふことが出來ない。一片の婆心を以て病苦を解脫せしむことは醫者の醫德であり、藥餌を與へ、手術を施すことは醫者の醫術に屬するものである。治德と治術の關係もこれと異なるところはない。治者は努めて善政を施行せんとすることは人情の本然である。然しその施しやうの如何によつて非常な成功を納めることもあれば反つて謂れなき摩擦を生じ非難を蒙る結果にならぬとも限らない。之れ一にその治術の巧拙によるものである。大國を治めること小鮮を烹るが如しと云ふ。政治するに當つて如何に細心の注意と優れた技術が必要であるかは凡そ贅言を要しないであらう。

    この度島都の藝妲に對して全身の健康診斷書を提出せしむべく北署から言渡されたが彼女等は何を感違ひしてかこれを娼妓と同じやうに檢黴を實施するものであると早合點し、憤慨と恐慌に驅られた彼女等は柳眉を逆立ちて檢番に廢業屆を提出する者、又は廢業を聲明する者その數たちまち數十名に上り、稻江の花柳界に時ならぬ波瀾を捲き起した。
    社會保健の見地より見て接客業者に健康の確保は絕對に必要な條件である。藝妲も接客業である以上決して放任すべきものではない。又藝者の立場から見ても健康診斷書の提出は決して娼婦の檢黴と同性質のものではなく、從つて彼女等の自尊心を傷けるものではない。のみならず健康の證明があることに依つてお客にも安心を與へる結果になり、寧ろ商賣繁昌を齎らすこそすれ、何等損害を蒙るものではない。

    然るにその結果は何故に斯くも豫期せざるものになつたのであらうか?茲に署當局の不用意があつたのではないか。卽ちその說明に明瞭を缺きその取扱ひに親切の至らざるところがあつたのではないか。若し藝者が許可營業者であるが故に、普段鞠躬如として唯だ命これ從ふものであるが故にぞんざいにこれを取扱ひ、天降り的に押しつけた嫌があるとすれば甚だ遺憾とせねばならない。勿論女子と小人は養ひ難しと云ふ諺もあるから、一一その機嫌を取つてゐた日には何一つ出來るものではない。只だ吾人の言ひたいのは當局者に於てこの場合若干親切氣を示してその理解を求め、納得の往くやうに取扱つたらもつとよき結果が得られたのではないかと思はずに居られない。殊に健康診斷とは云へ事苟くも身體の檢查に關するものであるからその關係極めて微妙、その感じやう一つで惡く解釋される恐れが多分にあり、從つてその自尊心を傷ける結果にならぬ共限らないのである。

    前述の問題は市井の屑事に過ぎないかも知れない。然し政治上の技術に關する點から見ればその性質は決して國家の大問題と異らないのである。殊に本島の如く教育の未だ普及してゐないところに於ては直接人民に接觸してゐる第一線の官吏に對して一層その親切なる態度を求めずに居られない。統治者であると同時に教師としての親切を要し、父母としての愛情を要することは東洋に於ける政治理想の要求するところである。殊に新附民を統治する場合にこの條件が一層痛切に要求されるのである。本島に於ける第一線の官吏はややもすればこの點をおろそかにする傾向がないでもない。為めに善意なる施政方針でも直接人民に當る場合は甚だ歪曲された形になつて終ふ場合は必ずしも少なしとしない。直接その衝に當るものの戒心を喚起すると同時に、監督の地位にあるものの關心を促したいものである

    上海萬華鏡 國際都市の明暗相(三)/陳逢源 海外遊記

    舞女、野鶏と嚮導社
    魔都上海の特色としては性の徹底的解放である。金儲けの手段とならば上海の女は如何なる破廉恥事をもなし得ない事はない例へば磨鏡と稱して女と女との間に淫亂のテクニックを見世物に供するが如き獵奇は夙に上海の名物の一つとなり四馬路にある有名な茶樓青蓮閣は私娼の一種たる野鶏の巢窟として知られてゐる。現在では大世界及び新世界と同樣に活動とか、芝居とか、其他雜多な興行を經營してゐる大東旅館のビルディング內に於て晝夜の區別なく高等な野鶏が二、三百名も集まってゐる彼女達は各々娘姨といふ召使とも身內ともつかない者を一人づゞ附添はしてゐるから、凡ての取引は先づ娘姨と折衝した後然るべき場所へつれて行くのである。
    勿論大東、東亞、一品香等の如き支那人の一流旅館でさへかかる待合の兼業によって賑ってゐる位である。彼女達の內には或はダンサーの成れの果て者もあれば、或は女學生の墮落した者もあり、又は生活難に逐はれて餘儀なく肉の切賣をなさゞるを得ない者が最も多いようだ。最近嚮導社と稱して美貌な婦女子を狩り集めて交際花即ちステッキガールとして經營する者が續出して來た。表看板では旅行客の案內役としてゐるが、實は野鶏の變態したもので一時間一圓の割合を以て普通の宴席にも侍べるし、ダンスホールへも附合ふ許りでなく、双方さへ合意すれば何處へでもつれて行かれるといふ變幻自在な代物である殊に戰爭の影響によって各地より上海租界へ目掛けて避難して來た多少餘裕のある連中を始め一般旅行者には此の種の女を最も手頃な相手として一時は非常な勢ひで增え出しとうとう二千人以上にも達したさうだかうなれば如何に自由放任主義な工部局も遂に躍起となって其の營業の制限に乘り出したさうだ。もう一つ上海で最近となって加速度的にハヤリ出したのはダンスである。就中麗都、仙□、百樂門といふ一流のホールは相競ふて華麗な設備に大金を□ぎ込んでゐる許りでなく、ジーズバンド以外にいゝ音樂とか又は色々なステージダンスを□じて人氣を博してゐる。ダンサーは支那人が最も多く外國人も少くないが、中にも支那人の□ンサーは蘇杭兩地の美人の粹を集めた程の粒揃へである。
    彼女達はいづれもを贅を盡したきらびやかな流行服裝を着□なしながらモーダンボーイを相手にして踊ってゐる風景からは何うしても戰亂上海の觀念が□んで來ない。若し其の他の二三流どころのホールを合すれば少なくとも二百は下らないさうだから、上海では如何にダンスが全盛極めてゐるかが窺はれる。
    これがために舊時代の長三とか么二とかさういった一二流の藝者は既に往年の勢力がなくなった。上海の支那人でさへ名のある長三を遊ばうとするには時間と金を費やしてかゝらなければならないから、一般の旅行者には蓋し無緣な眾生であらう。若し平和時代ならともかく現在の如き殺伐時代にはかゝる悠長な封建趣味よりも自然と刹那的享樂に耽けざるを得ない。從って上海の如き輕薄な所では高等野鶏たるステッキガールやダンサーが等が特に跋扈するに至った事は或は自然發生的な現象であるかも知れない。(寫真は大世界歡樂鄉)

    ソ聯の遷延口實は 何ら理由根據なし 飽迄漁業權確保に邁進 頭條新聞

    【東京六日發同盟】外務省では漁業條約問題に關し五日在モスクワ東鄉大使に訓令を發するとともに六日情報部長談の形式を以て我方の決意を明示しソ聯側の非を難詰するところあつたが元來帝國の露領沿岸における漁業權はポーツマス條約第十一條第一項の明文に基くもので漁業條約はこの基本權の行使規程に過ぎず假協定條約が消滅するとしても該漁業權その物の消滅することは絕對にないのである、然るにソ側は一九三六年秋兩國間に妥結を見た改訂漁業條約に對し調印間際に突如手續未完了を口實に調印を拒否するに至り爾來我方數次の調印督促にも拘らず何等誠意を見せず最近に至つては逆に北鐵支拂金問題及び日本がポーツマス條約違反をなしつつありと強辯して本交涉を故意に遷延せしめつつあるのである、而してソ聯の稱するポーツマス條約違反とは
    一、ポーツマス條約によれば南滿洲鐵道守備のため一粁十五名以上の駐兵が出來ぬのに日本はこれ以上の兵力を滿洲に駐屯せしめてゐる
    一、日本は宗谷海峽は要塞地帶なりとて自由航行を阻害するが如きはポーツマス條約第九條に違反するものなり
    との二點であるが我方の右に對する見解は
    一、滿洲に於ける帝國の駐兵權は滿洲國の獨立に依る日滿議定書に基き獲得せるもので且つ北鐵を委讓せられたる今日日露双方の鐵道守備兵力を規定せる條項は問題の對象となり得ない。
    一、ポーツマス條約第九條の規定は嚴に日本側はこれを遵守してゐる。然して宗谷海峽は幅員二十三浬を有するものでたとへ日本領海の部分が立入禁止區域となるも何等自由航行を阻害するものでない。また北鐵支拂金問題は元來ソ聯政府の滿洲國に對し履行すべき債務を履行せぬため已むなく滿洲國に於て北鐵代償最終割賦金約六百萬圓の支拂を留保するに至つたもので理は滿洲國にあるは明瞭なるのみならず漁業問題とは全く別個の問題である。
    以上の如くソ聯側の口實とする遷延策は何等根據なきのみならず或は別個に商議すべきものなるは明かにしてこれを以てしてもソ聯の漁業條約に對する態度が如何に理不盡なるかは明瞭であつて我方としては一時たりとも漁業權の中絕を許さず飽くまで漁業權確保に邁進する決意を固めてゐる。

    社說 爭議一轉して生產擴充へ 勞働界最近も協調的傾向 社說


    凡そ戰爭はこれを二つに分けて考へることが出來る。その一つは軍事であり、他の一つは經濟である。しかして軍事は、直接軍人の掌るところにして、經濟は銃後國民の當然負擔すべき義務であるが、この軍事と經濟は恰も車の兩輪に於けるが如く兩兩相俟つて始めて目的が達成されるものである。事變以來茲に一年四ヶ月、支那四百餘州は殆ど皇軍の占領するところとなつた、若し事變にして憂ふるところありとせば、そは軍事に非ずして國民の經濟力にありと云はねばならぬ。漢口陷落と共に事變は今や長期作戰の第四階段に入り、殊に占領區域に於ける長期建設は漸くその緖につかんとしてゐる。國家總動員法の全面的發動も考慮されてゐる外、軍事費の增加、增稅等も避け難き重大な時局にあり、國民として負擔の輕減を望むべき期でないことは覺悟の前ではあるが今後に於ける長期建設に尚多大の國力を傾注せねばならぬことは云はずとも自明の理である。

    長期戰に對處して國民がおのがじし國策に順應する外、その立場によつて滅私奉公、銃後の責務を盡さねばならぬことは、言を俟たざるところであるが、とりわけ一國の國力を左右する產業界にあつては、特にその必要を痛感され要望されるものである。蓋し產業は國民の厚生、國力の充實增進を圖る國家的大使命を帶びてゐるからである。事變發生以來、勞資共に時局重大性に鑑み產業報國の精神に燃え、勞資一如を顯現して來たことは、非常時下我が國情のしからしめたものであるとは云へ、洵に喜ぶべき現象と云はねばならぬ、これは昨夏、厚生省が「勞資關係調整方策要綱」を樹立し、各事業場に於て勞資を包含した產業團體を作り、更にこれを統合し、事業として懇談會、能率增進、待遇、福利、教養等による指導よろしきを得たものであると云ふものの、勞資側の產業報國精神に出發した協調の美果であることを忘れてはならない。

    試みに最近に於ける勞働爭議を見るに、昭和六年の二千四百餘件が最高記錄となつてゐるが昭和十一年來物價高騰により勞銀値上げ要求の爭議が相次いで起り、一時その成行を憂慮されてゐたが、支那事變が勃發するや爭議は殆ど絕えてしまつたかの觀を呈した。去る五日本紙特電の報ずるところによれば、本年一月以降九月までの爭議件數は、僅かに八三七件(厚生省勞働局調查)に過ぎず、これを昨年同期の一八六七件に比すれば一○三○件の激減を示し、半減以上の好成績を示してゐる。殊に注目すべきは、件數の減少と共にその爭議內容たる賃銀增額、勞銀減額反對、解雇反對、退職手當增額等から轉じて、勞働時間の短縮、工場福利施設要求に向ひ、生產力の擴充に伴ふ勞働强化を反映してゐるところ、勞働者の生活安定を物語つてゐるとは云へ、如實に勞資一體、產業報國の精神を顯現したものと見るべきである。

    尚ここに注意すべきことは殷盛產業中わけても軍需關係者は、層一層の深省がなければならぬ。事變勃發以來、軍需品の生產が擴充され、皇軍が輝やく戰績を擧げたことに役立ち、聖戰に有終の美果を結ぶことは、軍政當局の要望であると同時に、國家が國民に對する一つの重大な要請であるからである。殷盛產業に參加し得ることは、生をこの聖代に享た斯業の果報である。時局重大を認識して君國のため奉公の誠を效さねばならぬ。又一般產業に於ても、目下貿易振興の線に沿つて生產擴充が要望され、着着と國力の充實に邁進してゐる時である。この秋に當り層一層協調の實を擧げ勞資一如の精神を發揮し、產業報國に邁進する覺悟を新たにしたいものである。

    上海萬華鏡 國際都市の明暗相(四)/陳逢源 海外遊記

    歌女.蘇雪舫
    支那人は一般に芝居が好きであるが、支那芝居は歌劇であり歌が主でせりふがであるから、支那人は普通聽戲と稱して見るよりも聞くべきものだとされてゐる。若し歌が上手でなければ如何に藝が上達してもなかなか名優の仲間に入れて吳れない。從って芝居と切り離して單に歌だけに對しても相當な魅力を持ってゐる。支那芝居での歌は西皮、二簧と稱して主に北京を中心として發達したもので、臺灣の藝者の歌も多くは之である。佛租界にある歡樂鄉大世界は入塲料僅か二十二錢の一般民眾の娛樂機關で、主として中流以下の階級たる小店員、勞働者又は地方の客を吸收するのを目當にしてゐる、四階建の立派な建物の中には色々な催し物はあるがいつも人氣を呼んでゐるのは單に歌女の歌を聞かせる共和廳と稱する塲所である。
    私は或る晩舊友石煥長君からは一つ大世界の名歌女蘇雪舫の歌を聞かうぢゃないかと誘はるる儘、二人で自動車を飛ばしてフラリと大世界の共和廳に入った歌女は十數名もあったらうが麗娟とか、彩鳳とか、秀珍とかいって代る代る坐席正面の高いステージの上に立って各々得意な歌を唱ってゐた。最後に現はれたのが蘇雪舫で、別嬪と稱する程ではないが肉つきがよくどことなく他の歌女よりはレファインされてゐる。蘇雪舫の聲はステージの額に大書特書してゐる珠圓玉潤とか、又は霓裳仙曲に相應しいものか何うかは知らないが、とにかく聲量と言ひ、喉韵のよさと言ひ、流石上海歌女の第一人者たるに恥ぢないメロディを漂はしてゐるから、方々からは好好と連發されたといふすばらしい人氣である。
    石煥長君は上海で美容醫院を開業してから既に十年も立ったので、殊に命よりも顏を大切にする上□ガールの信用を博し、今では相當に繁昌してゐる。蘇雪舫も彼の御得意であった關係から相知合となったので、翌日私と一しよに彼女の住宅を訪れて色々と身の上話を聞いた。部屋の中には西洋ペッド電燈スタンド、ラヂオ等の設備があり、特に目立ってゐるのは雪裡花容添月色、舫中秋夜作春宵といふつやつぽい文句のがあって一寸小綺麗に飾られてゐる。
    彼女は蘇州の產で年頃は二十五六歲に見え十七歲から女優となり其の間一度は結婚したが、旨く行かなかったのでとうとう破鏡の止むなきに至った。二、三年前からは大世界の歌女として午後と夜で一日二回、一回約十五分乃至二十分だけ歌へばいゝ譯である。他の歌女は月收僅か三四十圓から多くて五六十圓しかないのに比べて月收百圓もあるから、それだけ藝の値打が買はれた譯である。其の外時折放送局に招請されて得意の歌を放送してゐるから、多少の特別收入もあって身を汚す事なく女の腕一本で雄々しく生活戰線に立ってゐるのである。
    現在の上海は未だ排日の空氣はあるが、蘇雪舫は少しもそれを氣にしてゐないから、日本に相當好意を持ってゐるに違ひない。蘇雪舫からは機會があれば臺灣へ行きたいと言ってゐるが、臺灣現在の空氣と時局の關係から一寸左樣な希望を納れる時機ではない。併し日本を支那とは今後何うしても親善を結ばなければならない運命にあるので、近き將來に於ては支那趣味の流行が到來しないとも限らない。私は蘇雪舫の清曲を聞くべく臺灣へ迎へられる時期が一日も早からん事を念願して止まない。歸る間際に私は左の七言絕句を書いて渡したらとても喜んでそれを繰り返して讀んで居た。
    贈蘇雪舫女史
    居然聲韵壓同羣。百練功成善吐呑。我聽陽春歌一曲。恰如紹酒醉初醺。
    (寫真中央は蘇雪舫、左は石煥長、右は筆者)

    心聲 漢詩

    詠兒玉藤園大將/李騰嶽、詠兒玉藤園大將/蔡癡雲、追懷兒玉藤園大將/吳醉蓮、詠兒玉藤園大將/錫麟、詠兒玉藤園大將/錫候、詠兒玉藤園大將/錫卿、雲姮四女出閣賦示/炳煌 倪希昶、炳煌社兄令嫒雲姮女士于歸謹賦俚詞誌喜。/篁村 劉克明、雲姮女士于歸之敬/潤菴 魏清德、炳煌老棣臺四女公子雲姮于歸誌喜/六十七叟 顏笏山、瀛社老友倪炳煌君令嫒雲姮女士出閣賦此恭賀/雪漁 謝汝銓

    東亞安定のため英米の 適確な認識を要求 外相がけふ兩大使來訪を求む 頭條新聞

    【東京七日發同盟】有田外相は八日クレギー、グルー駐日英米兩大使の來訪を求め十一月十八日附對米回答に盛られたる帝國政府の支那に於ける權益尊重門戶開放、機會均等に關する公明なる態度につき意見の交換を行ひ今後の帝國並びに第三國の支那に於ける經濟的活動の分野に關する公正妥當なる基準を明示すると共に英米兩國政府の適確なる認識を東亞の安定の為めに要求する筈である而して右に關する帝國政府の根本方針としては新支那の國防と經濟的自主達成の為め必要とされる制限の下に政治的特權を伴ふことなく列國が支那市場で享有すべき投資貿易企業の自由と無差別待遇が當然原則的に考慮されてゐる。【寫真は有田外相】

    社說 東亞の建設と臺灣經濟指標 恒久的經濟對策を考究樹立せよ 社說


    東亞建設の遠大なる事業を遂行する為めに全國民を擧げて聖戰達成の單一目標に向つて邁進する時代である。五百萬島民もこの偉業を完成する為めに協力し東亞建設のパイオニアとしての責務を果すべき時である。言ふ迄もなく、この大事業を完成する為めには長期建設を覺悟すべきである。その為めには多大の建設費を支出せねばならない。來年度の豫算も八十億圓を突破するものと見られて居る。財政の膨脹はこの情勢では緩和する見込がなく、全國民が銃後の護りを固める為めに、更に一層勤儉貯蓄に邁進すべきであると共に生產力の擴充に努力せねばならない。聖戰はこれからであると言はれて居る如く、東亞の建設の前途には尚幾多の困難が伏在し、これを克服し、國民經濟力の增大に期待されて居る。戰時には物資の需要が益益增加し、供給が伴はないのを常として居るから、稍もすれば、金と物との均衡が保持されないで、インフレーシヨンを惹起する虞れがあるから、經濟統制を斷行し抑制の必要が起るのである。

    戰時の經濟對策として最も緊要と視されて居るのは物資の豐富なる供給を行ふ為に徹底した消費節約を行ふべき事である。卽ち對外為替を維持する為めには為替管理を强化し出來得る限り國內物資のみを以て增大した需要を賄はねばならない。それが戰時經濟の特異性である今後の經濟政策は更に經濟統制の强化を斷行するものと見るべく物資の生產擴充に依つて國民貯蓄の奬勵を行ひ、消費節約を徹底さすのが一層急務となる譯である。それが惡性インフレを防止する唯一の對策である。政府が國家總動員法を全面的に發動し、經濟統制を强化して行くのもその目標は東亞の長期建設にあり、本島民もこの偉業を完成する為めに國民の一員として犧牲を覺悟し國策の遂行に邁進せねばならない秋である。

    今後の經濟統制の見透しに對し種種なる觀察が下されて居るが、インフレを防止する為めには更に一段と國民經濟力の充實を計らねばならない。既に大規模な戰場戰が第二階段に入り、今後は專ら長期建設期に入つて居るから經濟統制の目標もあく迄も積極的經濟力の確立に待つべきである。國民經濟力の充實は銃後の生產擴充を計る唯一の强力なる對策である。事變勃發の當初に於いては戰場需要品の充實のみに全力を傾注して居つたので、國內の經濟政策も戰場用品を單一目標に置いて生產擴充を行ふて來たが、愈愈東亞の長期建設時代に入つては物的にも人的にも更に遠大なる國策を樹立すべきである。卽ち一時凌ぎの戰時經濟から一步を進めて恒久的經濟の確立に努力する時代となつたのである。戰時經濟時代には經濟界の一部に犧牲を强いても軍需品の充實に全力を傾注すべきであつたから、經濟界もその為めに多少萎縮し勝ちであつた、その為めに經濟統制に於いても一時的又は彌縫的であつたが、今後は專ら恒久的發展を計らねばならない。

    恒久的經濟建設を行ふ為めには經濟的に合理的建設を行ふべきである。時局產業を第一義に考慮すべきは勿論であるも、平和產業に對しても不自然なる壓迫や統制は避けるべきである。平和產業の萎縮は却つて時局產業の發展を阻害する結果となる。臺灣に於ける時局產業の奬勵に對しても、平和產業を萎縮せしめない樣に考慮を拂ふべきである。徒らに一時的の功名心にかられて平和產業の發達を阻止するが如き經濟政策は餘程慎重なる態度を取つて處理せねば、却つて臺灣全體の經濟界を萎縮させる虞れがある。時代は既に革新を要求して居り東亞の長期建設と言ふ偉業を完成する為めには官民が更に一致協力すべきである。この見地からして臺灣の經濟政策も民間の輿論を尊重し恒久的對策を確立すべきである。

    上海萬華鏡 國際都市の明暗相(五)/陳逢源 海外遊記

    名伶.馬連良と張君秋
    上海滯在中に何かいゝ支那芝居がないかと聞いたら、丁度北京の名伶馬連良が來てゐると言ふので或る晚石煥長君と一しよ黃金大戲院へ行って支那芝居のよさをする事が出來た。十數年前天蟾舞臺に於て梅蘭方の天女散花に陶酔した事を思ひ起せば、上海は其の黃金の力を以て支那の名伶を時々動員して來ただけ觀覽料が北京より頗る高い。
    支那芝居を見る上に特に大切なのは役柄即ち踋色と稱して普通生、旦、淨、丑、末に分けられてゐるが、生の內にも老生あり、小生あり、武生あり、紅生等あってなかなか日本人には解りにくいが、支那芝居を見る上に於てそこまで究めなければならぬ程重要なものである。
    現在支那劇界に於ける馬連良の地位は老生として夙に第一人者たる名聲を博し、曾て劇界を一時風靡した故譚鑫培の孫に當る富英と共に双璧だと言はれてゐるが、譚よりも寧ろ人氣があり又事實に於ての到達し得ざる境地ある事は劇通の一致した定評である。
    馬連良の特色は其の表情の優美と唱工の玲瓏にある。彼は中肉にして清秀、加ふるに手、眼身、歩の運用とも敏活にして生動を極めてゐる。殊に彼の聲は彈力性に富み、如何なる煩はしいリズムをも秀潤の水音が輕く流れ出づる如く聽眾をして一種の美感を起さしてゐる。彼を非議する者は油腔滑調といってゐるが、彼が一字々々と悠揚妙曼に唱ってゐる所は到底他の追隨許さない。
    併し如何に馬連良の藝術がよくても支那芝居に女形の旦のいい相棒がなければなかなか引立たないし、又一般觀眾の魅力を喚び起すに足らない。梅蘭芳が既に世界的名優となり、北京四大名と稱して梅の外に程硯秋荀慧生及び尚小雲の演劇が如何に北京人の心弦を響かせて來たかは到底支那人でなければ想像しにくい事である。馬連良に配するに當年二十二歲の若い張君秋を拉して來たのでいよいよ錦上添花の感じがする。張は支那某大學の出身であるが、曾て學藝會に於ける彼の歌が餘りにも素人離れした所から其の天才が認められ、之がためとうとう彼の好きな劇界に投じて未だ間もないさうだ。從って彼の技能は何んと言っても四大名日程圓熟してゐないが、彼の天才的閃きは既に四大名旦に次ぐだけの人氣を贏ち得ると評せられてゐる
    元來支那人のインナーライフと劇との連なりが日本人の豫想以上に深いものがある。學藝會の呼び物は何よりも老生とか、青衣等をよく唱ふ學生を指して言ふ事である。私は其の後南京の明湖春に於て維新政府の某々要人に招ばれた際に、南京名妓の歌を聞いた後、某々要人とも各々一席御披露した位に支那に於ける劇狂は隨分上流階級にも泌み込んである。北京の故宮及び萬壽山頤和園でさへ堂々たる戲臺がある事を見ても此の邊の機微が窺はれるであらう。
    のみならず日常用語たる傀儡とか、優孟衣冠等も芝居から來たもので、乾隆帝だったか人生は凡て芝居だと言ってゐる如く支那人のする事、為す事が頗る芝居じみてゐる事多く、既に國民性の一部まで形成してゐる事を知らなければならない。
    馬連良の事から思はず橫道へ入ったが、私は今更上海の黃金大戲院で見た狀元譜とか、法門寺の筋書を說明しようとは思はない、唯此の二つの筋書はいづれも馬連良の編んだものであるだけ、これまで餘り重視されてゐない背景も馬の意匠によったものか何かは知らないが、大體に於てに舞臺に於けるきらびやかな服裝とよくっり合ってゐる事を一言附して置きたい。【寫真は馬連良と女形に扮した張君秋】

    天皇陛下には昨日 大本營陸軍部に行幸 頭條新聞

    【東京八日發同盟】大□下皇軍の威武は彌が上にも輝かしく赫赫たる戰果を收めつつある長期聖戰下の八日畏くも天皇陛下には帷幄の機務に奉仕する三宅坂の大本營陸軍部に行幸遊ばされ閑院幕僚長宮殿下を始め奉り首腦部に賜謁、奏上を御聽取あらせられ更に輝かしい戰果を物語る數數の兵器等を天覽あらせられたこの朝陛下には御軍裝御凛凛しく大勲位副章を御佩用、宇佐美侍從武官長御陪乘申上げ松平宮相、百武侍從長等を隨へさせられ略式自動車鹵簿にて午前十一時三十分宮城御出門、板垣陸相以下奉迎裡に大本營陸軍部に着御、便殿にて各宮殿下に御對面、板垣陸相、西尾教育總監に賜謁後閑院總長宮殿下より所管事項に關して具さに奏上を聽召されたが次で多田參謀次長の御說明にて階上陳列室の戰況寫真を御巡覽あらせられ更に玉步を庭內に運ばせられて殊勲に輝く福山機をはじめ此度新たに据付けられた張鼓峯に於けるソ聯軍のアキシム重機關銃、支那の各戰線で押收した各種砲其他江陰要塞の巨砲、ソ軍二六型戰車等の鹵獲兵器を天覽あらせられた、光榮の福山機は操縱者故福山米助大尉が去る四月十日歸德附近にて敵二機を撃墜したが敵彈のため左膝と右腕に負つた重傷に堪へて勇敢沈着にも麻糸にて血止をなしハンケチを墜落中の愛機の操縱桿に縛りつけ口に咥へて操縱、出血のため衰へ行く意識のうちに渾身の勇を鼓して基地に歸還した悲壯な武勳の九五式戰闘機で陛下には御感御一入にて殊勳を嘉せられた、便殿にて御少憩の後は午後零時二十分御食堂に臨御閑院參謀總長宮殿下をはじめ各皇族方、板垣陸相、西尾教育總監、多田參謀次長以下陸軍首腦部など三十三名に御陪食を仰付けられて御晝食を召させられつつ勞をねぎらはせられ午後一時二十五分大本營陸軍部御發還御あらせられた。

    社說 防犯協會の活用を期待 社說


    支那事變は廣東、武漢攻略を以て一段階とすることは已に內外の均しく認むる所であり、我國は今や蔣介石の長期抗戰に並行して東亞新秩序の長期設に邁進せんとしてゐる。此秋に當り、吾吾國民は事變の持つ重大意義を再認識して覺悟を新にすべきは勿論、國策遂行の為めに公布された幾多の國策法令の遵守、各種犯罪の絕滅を期し、所謂犯罪豫防に努力して以て後方の治安維持を確保すべきであることは今更贅言を要しない。此時に當り、臺北州警務部と臺北州防犯協會とが相協力して去五日から十一日迄州下一圓に亘り、「銃後の防犯週間」を實施したことは誠に時宜を得た企てであり、百二十萬州民を打て一丸として自警自戒心の喚起、警民一如相提携協力の下に犯罪の防止に努め、以て銃後の務を完了せんとするは誠に意義深きことと謂はねばならない。

    犯罪なき社會は古往今來全人類を通じての一大理想鄉である。しかも此真摯なる冀求――理想鄉が遂に今も昔も變りなく、依然として吾人の腦裡に描かれた一つのユートピヤたることを免かれない。殊に文化の進步發達に伴ひ、犯罪は減少するどころか、却て增加の一途を辿り、然も犯罪手口の巧妙なる、その質の惡竦なことは日常新聞紙上に散見する丈でも吾人の心膽を寒からしむるに足るものがあり、誠に憂慮すべき社會現象である。思ふに近代に於ける犯罪の增加は個人主義、自由主義の上に立つ資本主義社會が造出した貧富の懸隔からでもあるが一面社會文化の複雜化と人口の著しき增加とに基因してゐることも亦事實である。殊に世界大戰後久しきに亘る世界的不景氣から經濟界の不況に伴ふ失業者の街頭流出が頓みに犯罪の激增を促したことはかくれもない事實である。

    更に臺北州下に於ける刑法犯の發生增加を見るに昭和三年の一四、五五九件が昭和十二年には四八、九一六件と云ふ三倍强の驚くべき增加を來し、就中窃盜、橫領、賭博、傷害等の如きは三倍乃至八倍と云ふ激增振りを示してゐる。如斯犯罪の激增は何と云つても茲十數年來の經濟的不況と思想的變動とが見遁すことの出來ない最大原因と謂ふべきであらう。殊に刑法犯の大宗とも云ふべき窃盜、詐僞、橫領等の犯罪者中には病苦や生活苦に依るもの、或は白眼視された哀れな前科者の再犯が決して少くない。併乍原因動機の如何に拘はらず、社會の治安を攪亂する者として罰せられるが、犯される者も全然責任なしとは云へない。彼の窃盜、詐僞、橫領等は被害者に隙と油斷がない限り絕對に犯されることはないのである。此故に自警自戒に依る犯罪の未然防止が最も容易な犯罪對策と謂はるる所以である。

    目下實施中の防犯週間の企を見ると實に盛澤山の行事と催しが行はれ、又行はれんとしてゐる。例へばビラ配布、ポスター展覽會、保甲會議、家長主婦會議、防犯座談會、防犯の夕、前科者やリスト登載者に對する警吿等等、いづれも一般州民に對し、防犯智識の涵養、普及或は自警自戒心の喚起には夫夫相當の效果を收めるであらう。唯茲に注目すべきは此等は專ら一般良民に對してのみ期待し得る效果にして、斯る通り一遍の宣傳丈では一般犯罪者に對して果して幾莫の效果を奏し得るものか甚だ疑問である。蓋し犯罪者側に對しても積極的に働きかけ、出來るだけ犯罪を抑壓するに非らざれば完全なる防犯主義の徹底を期することは出來ない。固より犯罪は凡て社會的關係であり、環境の改善が最も望ましいことではあるが、之は一朝一夕に出來ることでなく、結局折角出來た防犯協會、各郡署防犯支會を有效に活用して真に名實ともに親みある民眾警察の機能を發揮し一般良民に對する防犯思想の徹底を期するは勿論、犯罪者側に對しても所謂犯罪動機の除去に努め、心からなる警民の固き握手に依てこそ始めて犯罪防止の良き成果を期待し得られるものと信ずるのである。

    日滿支が混合結合 平和と安定へ邁進 杉山指揮官就任の辭 頭條新聞

    【北京九日發同盟】北支方面軍最高指揮官の更迭に伴ひ新最高指揮官たる杉山大將は去る三十日北京着寺內前最高指揮官と北支軍司令部において事務引繼ぎを完了したが九日朝寺內前指揮官の門司上陸を俟つて杉山新指揮官より左の如き就任の辭を發表した
    聖戰茲に一年有半皇軍の威武は黨軍を慴伏して皇威支那大陸を光被し北中南支における新政權は着着道義立國の巨步を進め諸般の業績向上發展の一路を辿りその治下民眾は業を樂しみ居に安んじて更生氣運澎湃たるは誠に欣快に堪えざる所であるかくて蔣政權は今や窘窮其の極にありと雖も未だ迷夢より覺むるを得ず今尚容共に没頭し第三國に恃賴反日抗戰を唱へ日に人心を惑亂し都市を焦土と化し沃野を荒廢に歸し無辜の民眾を水火の中に置き塗炭の苦しみに陷れて悔ゆることなく徒らに私權の擁護に專念し其の暴虐は天人俱に寬さざる所である斯の如き非道政權は徹底的に打倒覆滅して其の禍害を一掃し新たなる秩序を整へて日滿支三國の混和結合の上に平和と安定とを目指し康寧福祉を進めることが將に急務であるこの秋に方りて不肖は測らずも大命を拜し寺內前最高指揮官の遺蹤を承るに至りたるは無上の光榮たると共にその職責の重大なるを痛感し洵に恐懼に堪えざる所である向後畢生の力を竭し最善を效して御稜威の下靖國の神靈の加護に依り又忠誠熱烈なる銃後の支援を得て斷乎として赤魔の邪惡を挫き暴虐なる蔣政權を打倒潰滅して皇國傳統の大義大道を延べ形而上、下における東洋新秩序の建設を計り堅忍不拔聖戰の終局目的達成に向つて邁進して以て上聖旨に副ひ奉り下銃後國民の負託に應へんことを期する次第である

    社說 皇民運動の徹底的方針 善政は善教の民を得る如かず 社說


    古人の名訓に、善政は善教の民を得るに如かず、善政は民之れを畏れ、善教は民之れを愛す、善政は民財を得、善教は民心を得るといふ一節があるが、今日においてもまた大にこれを味ふべき名言である。云ふまでもなく、古今を通じて苟くも賢明なる為政者は何れも惡政を避けて善政を施す努力を務めないものはないが、ただその現はれたところの政績を見ると人民を心服せしめ得るものと得ざるものとの差を生ずるのは蓋し古人の言ふが如くよく人民を教へない結果、民心を得てゐないからではあると思ふ。

    昨年來支那事變下に於ける我が島民は絕好なる皇民試練の機運に際會し、全島民の燃ゆるが如き皇民化の熱意と指導者の野を燎くが如き舊狀打破の勢力とに依つて皇民化運動の一大飛躍的進展を見たのである。然しその中には形式のみに驅られて精神を打ち込めない嫌ひなものがあり、何もかも從來の習慣を純內地式に一變すれば、また日常に簡易な國語さへ解し得れば、それで皇民化したとは恰かも佛を作つて魂を入れざる木偶の類で、またいささか不自然の導き方たる譏りあるを免れぬところがあると思はれる。勿論生活外形の純內地化は皇民化を完成する一要件ではあるが、精神を伴はない單なる外形上のみの變革は現實社會より見て、往往行き過ぎた善政?とも論難されざるを得ないのである。是れすなはち古人の謂はゆる善政の善教に如かざる所以であらう。

    皇民運動の徹底的方針は島民に國民教育を施すにあり、義務教育を實施するにあり、また教育して心から皇民を仕上げるにあり、その精神上から皇民に仕上げれば、その生活の外形はおのづから自然に內地化せざるを得ないものである、故に皇民運動は國民教育の普及を圖ることはその本であり、生活樣式の變革を圖ることはその末である。この精神上からの內地化こそ皇民化の完成であり、また皇民運動の終局的目標であらねばならない。

    更に進んで皇民運動の指導的任務を負ふものは單に教育事業を掌る教育者ばかりでなく、凡ての官公吏は勿論、民間にある內地人でも自ら身を以て示し、愛を以て導く親心の言動と真心を缺いてはならないと思ふ。若し自分の新しい兄弟を善導教養するが如き愛情的關係なく、單に人の子を貰つて矯正鞭撻するが如き義理的關係だけに止まるとすれば、形式的の皇民化に力がはいつても精神的の皇民化に隙が出來、つい相互間の感情にその隔りを取り去ることが出來ず、そして、真實なる內臺渾然一體なる境地の實現を容易に見られないことを虞るるものである。故に皇民化運動の方策はその形式的變革を行き過ぎるよりも、精神的教導を努むる義務教育が急務であり、また精神的教導は義理的關係に依るのでなく、愛情的關係に結ばれて、そこに始めて內臺人渾然一體として、美しい皇民教育の完璧を擧げ得るのである。

    上海萬華鏡 國際都市の明暗相(六)/陳逢源 海外遊記

    大上海の夢
    支那經濟に於ける上海の地位は單に對外貿易のサイドより見ても全支各港貿易總額の五六○%を占め、又支那對外貿易の六○%餘は日、英、米、ドイツの四箇國で占めてゐる。加ふるに各國の投資が上海に集中されリーマー教授の測定によれば一九三一年に於て英國對支投資額九億六千三百萬米弗の七六%六を占め、日本は三億三千二百六十萬米弗の六六%四を占め、米國は一億五千二十萬米弗の六四%九を占めてゐるので、上海は半植民地たる支那に於ける列強の權益が如何に巨大であり且つ如何に相錯綜してゐる事が解る。
    一方に於て上海は又支那民族資本の最も發達してゐる所であり、上海に於ける戰禍の損害が第一次上海事變の十四億八千萬圓に對し四十四億五千萬圓の巨額に上ると推定せられ、其の內上海市政府より實業部に提出した十一月八日の報告によると閘北江灣、吳淞、真茹等を含む上海一帶の被害工塲二千餘、損失總額五億元と註せられてゐる。
    かくの如く上海は支那の最も富沃地方である長江沿岸の咽喉を扼し、列強帝國主義侵略の基點であると同時に淅江財閥を始め支那民族資本の本據であるから、其の地理的優越條件に基いて假令今回莫大な戰禍を受けても必ずや再び立ち上がるであらう事は少しも疑ふ餘地がない。併し今回の事變によって日本の勢力の伸長に伴ひ外國の勢力が追々と後退する已むなきに至る事も明かとなった。若し日本が真に支那に於ける歐米列強の帝國主義的侵略を是正しようとするならば、今後の上海は日本單獨の力を以て新秩序を建設せんとする事はなかなか困難でありさうかと言って外國の資力を藉りる譯にも行かないから、何うしても支那民族資本との提携を策すべきである事は言を俟たない。所が支那民族資本の巨頭である淅江財閥と國民政府とは既に離れるべからざる程の密接關係を結んでゐるのみならず、其の淅江資本も英米帝國主義の買辦性を有してゐるから、今後日本との提携をなし得る事態となるまでには相當の努力と時間を要すべきであらう。
    中支に對する經濟工作の第一歩として既に中支振興會社の手によって華中鐵鑛、華中水電、上海內河汽船、華中電氣通信、華中蠶糸等の事業が維新政府と提携して設立せられたが、其の他占領地帶に於ける一般工業に對して務めて日支合の形式で其の復興を計りつゝあるが、それと共になるべく支那民族資本の復興を誘致出來得る事態を作り出す事に一層と努力しなければならない。
    何しろ支那民族資本に信賴せしむるだけの活動範圍を與へずして歐米列強の帝國主義的侵略を是正せんとする事は到底不可能な話であるのみならず、刧って民族資本の租界逃避によって民族資本と外國資本との合從連衡を形成せしむる逆結果を生じないとも限らない。とにかく一方に支那民族資本の復興を圖りつゝ他方に如何に日本經濟との摩擦を輕減すべきかは今後殘されたる一大問題たるを失はないであらう。
    上海は租界の存在によって特殊の發展を遂げた商工業都市であり、殊に事變の影響で各地有力の支那人が租界內に避難して來たゝめ現在では却って事變前に比し變態的繁榮を齎らし、家屋、土地並びに家賃までも著しく騰貴を來してゐる狀態である今後かゝる外國勢力と離れて日支共榮の根據地となさんとするには大體舊國民政府の設定した中心區たる、黃浦江下流沿岸江灣及び吳淞方面を其の儘利用し、虬口碼頭並びに其の下流方面に大規模な新碼頭を建設する必要がある。
    新都市建設事業は維新政府と中支振興會社との合辦で既に九月十日資本金二千萬圓を以て上海恒產會社を創立して專ら其の運營に當らせる事となってゐるから、今後此の方面に大上海を建設し以て租界の繁榮を奪ふ事が終極の理想であらねばならない。かゝる大事業は勿論日支兩國民の真の協力なしでは到底なし得ざる底のものであるから、日本としては如何に支那民族資本を動員すべきかは、近く其の前景に推さなければなるまい。即ち新支那の秩序を如何に大上海に於て建設さるべきかはなかなか困難なる大問題であるがそれが單に一塲の夢に終らしめざるよう切に兩國民の賢明なる協力を期待して止まない。(終)(寫真は上海第一の高層ビル二十二階のパークホテル)

    北樺石油利權にも 不當壓迫策をとる ソ聯の橫暴益益募る 頭條新聞

    【東京十日發同盟】ソピエツト政府は日ソ漁業修正協定調印の國家的義務を遷延し不信の態度に出てゐるが最近また我が北樺石油利權に對して不當なる壓迫を加へ來つた右は北樺石油利權契約中の雇傭人員比率の適用上の解釋を故意に曲解し我が勞働者の強制迫出策に出たものであるが最近のソ聯の態度は石油利權の實體である採油手段に對する不當壓迫策をとつて居り右は日ソ基本條約利權契約に依つて約束された石油利權の否定であつて帝國政府としては正常なる利權擁護のためソ聯の猛省を促さざるを得ず外務省では十日午前在モスクワ東郷大使に訓令を發しソ聯政府に反省を要求するやう嚴談せしめることとなつた

    社說 東亞新秩序の 經濟的基礎 社說


    日支事變を契機として我が國は今や勢ひの趨く所に從つて東亞新秩序の主役として立ち上りつつある事は近衞首相其の他責任の地位に就く臺閣諸公の言行に徵して一點も疑ふ餘地がなくなつた。卽ち東亞新秩序とは東亞から歐米帝國主義的侵略を一掃し以て東亞の復興を圖らんとする事であつて東亞民族として何人も異議のあらう筈がなく、先づ日支兩國民が蹶起してかかる曠古の聖業に協力すべきは言を俟たない。

    併し東亞民族をして一つの運動を起さしめるには先づそれを基礎付けるだけのイデオロギーを確立しなければならない。孫文が三民主義を以て支那國民をアツピールして來た如く、我が國としては更に三民主義を超克する所の高遠な理想と其の具體的實行方法を東亞の諸民族、就中日支兩民族にアツピールすべき必要があらうと信ずる。假りに其の名稱を東亞協同體の組織形成と稱する如く、我が東洋の道義的精神を基調とし、一民族が他民族を搾取及び壓迫を加へるが如き事でなく、かかる協同體に參加する民族の共存同榮を圖らうとする底のものでなければならない。

    上述の如き理想は理想として苟くも東亞民族として何人も共鳴し得べきものであるが、かかる理想は單に一つの標語としか終らしむる事なく、真に東亞諸民族の情熱を驅り立てるには言ふ迄もなく其の經濟的基礎がなければならない。日支兩國の例を取つて見ても今後支那に於ける經濟工作が單に日本國民の利益だけでなく支那國民にもそれを均霑せしむるにあらざれば、如何に美辭麗句を以て之を飾つても到底有終の美をなさしめる事はなかなか不可能であるからである。從つて支那に於けるあらゆる建設及び資源の開發に對しても此の線に沿ふべく其の實行方法に再檢討を加ふべき必要があらうと思ふ。

    併し日本內地の經濟組織は戰時によつて著しく拘束せられ、統制せられつつある、依然として利潤を追ふ所の資本主義を以て基調としてゐる事は爭はれない事實である。從つて今後支那への資本的進出等も稍もすれば利潤あるを見て前記の理想を忘るるが如き懸念なしとしない、換言すれば眼前の小利のみを見て終極の共存同榮を沒却するが如き事あれば、到底かかる大事業を為し得ざるは明かである。茲に於て大陸經營の前提として國民經濟の再編成を要請せられてゐる一つの原因ではなからうか。

    有體に言へば大陸經營は日本國民として荷が重過ぎる程の難事業である。かかる難業を何うしてもなし遂げなければならない運命を好むと好まざるとに拘はらず既に引受けた以上は、國民一致の協力は勿論の事、經濟及び政治組織の再編成以外に、真に日本精神の顯現として偏狹な島國根性を清算し以て豁達なる胸量にて萬事を處理すべきものと信ずる。從つて臺灣及び朝鮮に對しても之と同一精神を以て層一層と努力すべき事を此の際特に痛感するものである。

    敗殘の南京 國民政府建設の跡(一)/陳逢源 海外遊記

    慘たる沿道の風景
    上海から南京へ行くには上海戰跡見學と同樣に尚憲兵隊の通行證が入るので未だ一般の人々に開放されてゐない。汽車も一日二回しか運行せず、午前八時出發の列車しか二等車の連結がないのでそれに乘る事にした。現在の北停車場は元のそれでなく、パラックで建てられた見すぼらしい狹いものであるが、支那人乘客が一パイも詰めかけてある上に、行客の檢查もあるので文字通り頗る雜踏を極めた。驛で新申報を買って讀めば十月一、二日に亘って實業部長王子惠氏を除く維新政府の要人を始め一切の政府機關がいよいよ上海を引揚げて南京入りした事が解った。今日(三日)も何んとかいふ委員連と多くの母國人が乘り込んでゐるので、二等車も身の動けぬ程の大繁昌であった。
    車が動き出したと同時に窓外を見渡せば閘北一帶は慘憺たる戰跡だ。もう少し先へ行けば第一回上海事變の殘骸が元の儘に橫はってゐる。かくては閘北の復興だけでも二、三十年はかゝるだらう真茹驛の手近にある暨南大學の大きい校舍も大分破壞されて人間のゐる樣子がない。三日前に南京の附近で敗殘兵の汽車襲撃事件があったためか、各驛とも警戒が相當嚴重らしい。折しも漢口攻略の真只中であるから此の線路も兵隊及び物資の輸送で戰爭氣分が橫溢してゐる。
    南翔を過ぎれば江南の水鄉を美化してゐる楊柳の並木が果てしなくつゞき、竹林だけは流石黃ばみ出してゐる。沿線の村落もところどころ壞されてゐるが、田園の靜かな風景は今も昔とさう變ってゐない。崑山に着いたら山の上の塔が半分しか殘ってゐないので戰爭の所為であったらう。十數年前此處を通った時に孔塔崑山煙雨裹、江村風物過端陽なる舊詩を億ひ起して多少感慨なきを得ない。
    右側にある洋澄湖は蟹の名產地で眺めも惡くない。そこを通り越せば何時の間にか古色蒼然たる蘇州城と古塔が見え出した驛の向側に小高い岡があり、それが吳山闔閭を葬した有名な虎丘で綺麗な塔が林の上に屹立してゐる。左側に岡とも山とも附かない吳山が眉黛の如く溫順しく起伏し、汽車も珍らしく煙突の林立してゐる無錫驛ヘスべリ込んだ。二三の煙突は既に黑い烟を吐いてゐるだけで、アトは多少の壞損で無氣味に靜まり返ってゐる。無錫の背後に聳えてゐる山は蘇東坡の詩で知られてゐる惠山らしいが、精々大屯山位の高さであらう。
    常州附近には桑園多く、丹陽驛は激戰の跡と見えて殆ど役に立たない位に壞されてゐる。かく汽車が江南の沃野を走ってゐるのにどこにも辨當を賣ってゐない程、此の線路も未だ平常狀態に立ち返ってゐない。やがて右側に山がボツボツ見え出し、遙かに金山寺の塔が高く浮き出して思ひ出多き鎮江に着いた。私は曾て金山寺の塔からは遙か遠方より流れて來た雄大な揚子江と其の真中に焦山がつゝ立ってゐる支那らしい風景に見とれた事を今でも忘れる事が出來ない。
    鎮江から先は一面の澤國だ。多分揚子江の水が溢れたためであらうが、數十哩に亘る田畑が悉く水にて覆は楊柳でさへ根本は水の中に浸してゐる。併し農民達は悠々として小舟を掉して菱の實を探って僅かに食糧に供してゐるさうだ。これだけの水害に對して新聞では殆ど何も書かないのが不思議である。天災人禍に苦しめられてゐる支那農民は真に氣の毒なものである樓霞山驛からは水がなくなり汽車が紫金山のうしろから堯化門和和平門を經て美しき玄武湖を眺めつゝやがて目指す下關の南京驛で下車したのは陽の未だ暑い午後三時過ぎであったらう。(寫真は南京中山門の現狀)

    公侯爵當然議員制廢止 特別勅選議員を設く 貴院制度部會審議結果の要旨 頭條新聞

    【東京十一日發同盟】議會制度審議貴族院制度部會は豫て小委員の經過報告に基き慎重審議を行つてゐたが二日で一應部會の審議を終了したので十日審議結果要旨を各委員に配布十四日總會を開會、右要旨を附議、答申案を決定することとなつた、右審議結果報告要旨左の如し
    一、議員の種別、議員(皇族議員を含まず以下同じ)の種別は左の如く定むること
    華族議員、勅選議員、特別勅任議員、地方議員
    二、華族議員、公侯伯子男爵を有するもの各各その同爵の選に當りたるものは七箇年の任期を以て議員たるべきものとすること、公侯爵を有するもの當然議員たるの制はこれを廢止しその數を減少すること
    三、勅選議員、國家に動勞あり又は學識あるものにして政府の自由の銓衡に依り勅任せられたる者は終身議員たるべきものとすること
    四、特別勅任議員、產業、經濟文化等各種の職能を少數部門に區分し各部門每に當該部門の職能に關する知能經驗に富める者の中より夫夫一定數の議員を選任し其の選任に依り勅任せられたる者は五個年の任期を以て議員たるべきものとすること
    五、地方議員、各道府縣に於て一定の資格ある者の中より議員を互選し其の選に當り勅任せられたる者は七個年の任期を以て議員たるべきものとすること
    六、議員の資格要件
    一、議員の資格年齡を滿三十歲とすること(但滿三十五歲とすべしとの意見あつた)
    一、現役陸海軍軍人等、國務大臣及び各種政務官以外の在職官吏及び待遇官吏並に北海道會議員及び府縣會議員は議員と相兼ぬることを得ざるものとすること
    一、不登院者の議員失格に關し規定を設くること
    七、議員の數
    一、議員の總數に付ては多かれ少かれその減員を認むること
    一、勅任議員數は華族議員に超過するも可なること
    一、華族議員數は各爵別に之を定むること
    一、特別勅任議員數は三十乃至五十人とすること
    一、地方議員數は各道府縣一人宛總計四十七人とすること
    外地よりも地方議員を選任すべしとの意見あつた。

    敗殘の南京 國民政府建設の跡(二)/陳逢源 海外遊記

    首都建設の夢
    南京で舊友林詩賓君の外に思がけもなく黃凱吾君に逢った事は何よりの仕合であった。黃君は現在首都警察廳督察處長の要職を帶び國民政府要人の邸宅を官舍として占領してゐるから、私もそこで二晩も御厄介になった南京ではガソリンの價格が高いため自働車賃がベラ棒に高いが黃君の官用自働車を飛ばして市中は勿論の事、中山陵の附近まで約一日半の短時間を以て略々見たい所を見盡したのである
    南京は國民政府の本據であるから必ずや焦土抗日の政策を實行して國民政府の重要機關を自ら爆破したであらうと豫想したが、事實さうではない。七八百元も投じて建てた豪奢な交通部だけは自爆したが、其の他は多少修繕しさへすれば立派に使へるし、又現に○及び維新政府で其の儘利用してゐる。中にも維新政府の外交部に充當してゐる元の國際聯歡社(中國外交官と各國外交官とのクラブ)は中國美術の粹を盡した壁畫等も少しも破損されてゐない。
    併し流石激戰の跡であっただけ下關一帶の市街は閘北程はないが、壁のみ殘ってゐる家屋がズラリと並んでゐる。南京城の中華門及び中山門等は未だ爆破された儘になってゐる。脂粉絃歌の巷であった秦淮の酒肆、妓樓も大部分は兵亂で荒されて昔の影形もない有樣である。
    住民は事變前百萬人と稱したが、今ではボツボツ歸って來たが精々四五十萬人しかないであらう。市上で逢った支那人は何うも金持とインテリらしい顏が一向見當らない。極言すれば南京城內は難民でウヨウヨしてゐるから、何となく一種言ふべからざる悲痛に打たれる。
    ところが黃林兩君の案內で市の真中に屹立してゐる鼓樓の上に登って見渡せば流石國民政府建設の跡がありありと見える。十數年前私は始めて南京へ着い晩、下關から鼓樓を經て繁華な南門まで行く途中といふものは殆ど人家がなく真暗であった。其の時ガタガタした馬車に乘って一時間も二時間も解らない所へつれて行かれるような氣持がして全く氣味が惡かった。
    現在特に人の目を惹く偉觀は其の幅八メートル、延長實に數十キロの中山路が市內の南北及び中山陵まで貫いてゐる事だ。
    中山路とは下關の揚子江頭より挹江門を經て城內に入り、鐵道に沿ふて鼓樓に達し更に一直線に南下して興中廣場を通って中華門に至る大道と、興中廣塲から東に折れて明の故宮をつき通り中山門を出て中山陵まで行き止まりに設けられた大道なのである。
    此の中山路の左右に國民政府の各機關が散在してゐる。即ち海軍司令部、兵工署、外交部、工商部、中央大學、教育部、軍政部、參謀本部、行政院、民國政府交通部及び財政部等の大建築は綠色の瓦とか、又は支那建築の方式を一部取入れられた堂々たる洋館である。私は國民政府の建築能力に對して敵ながら高く買っていゝと思ふ。
    淺野晃氏が南京に關して次の如く述べた事は全く同感である
    南京市はしかし未完成の首都である。既に中國建設の意志があり、そして其の行動がある以上、そして其の運動の異常な努力と進展とがある以上そこには首都がある。南京には未だ澤山の空地がある。又夥しき陋巷がある。しかし道路は大きく造られてあり、國民政府並びに中央黨部の建物はいづれも堂々としてゐる。それはある清潔な感じを有ってゐる。其の感じは普通の支那的な汚らしさとは言はゞ對蹠的な方向にあるものだ。何よりも其處には斷乎たる決意が潜んである。中國再建の意志と努力との一筋道に沿ふてゐた云々(淺野晃中支雜感揚子江十二月號第三十四頁參照)
    だが國民政府が折角の意志を有しながら排日抗日の惡靈につかれたゝめ、遂に八九年間着々として建設して來た首都をして一塲の夢とせしめた事は全く惜しい事であるし、國民黨の人達でも今ではキット後悔してゐるに違ひない【寫真は興中廣塲を中心とする鳥瞰圖】

    心聲 漢詩

    劉金聲老兄設讌蓬萊閣旗亭爲陳逢源先生洗塵、余叨陪末席一席間有名妓花月雲者素讀詩書、文人墨客多與交遊、頻旅對岸、能北京語、善唱旦腔、擧動從容、尤其是秋波一轉令人魂銷、洵花界之錚々者、爰賦此以贈。/簡荷生

    わが軍の精銳新に 陣翼を羽ばたかん 來れ、雌雄を決せよ 蔣介石に挑戰狀 頭條新聞

    【廣東十二日發同盟】十二月十二日午後四時南支派遣軍報道部發表、南支派遣軍最高指揮官は蔣介石に對し本十二日左記挑戰狀を發せり
    蔣介石に與ふ
    夫れ天下の大道は炳乎として大日輪の如し、風雲何んぞ恐れんや、ここに蔣が非望天下を毒し無辜の民眾を塗炭の苦しみに陷す、その罪萬死に値せずんばあるべからず、わが大日本帝國南支派遣軍はバイアス灣敵前上陸において世界の列強を驚倒敬服せしめ破竹の勢をもつて鎧袖一觸惠州、博羅、增城を屠り數日を期して大廣州を攻略、更に掃蕩の陣を東江南岸地區に進めて第百五十三師並びに第百五十一師の敵數千を殲滅せり、その戰闘における廣州の陷落はわが軍は僅に一、二個大隊をもつて當れるのみ、まことに髀肉の嘆に堪えず寶刀を携げてここに集まれるわが軍精銳三十萬英氣新に陣翼を羽ばたかんとす、蔣將軍にして名譽を重んずる武將ならば速かに百萬の大兵を率ゐ邀え撃て、時は將に嶺南の沃野に秋色深し、軍を進め颯爽の風を剪りて決戰に見えん、これ武將の本懷に非ずしてなんぞ、長期抗戰と稱し徒らに背を見するは卑劣卑怯の誹りを招くのみいつの日にか武將たるの面目を保持し得んや、早く來り會して雌雄を決せよ、秋風落莫蔣軍にして一敗地に塗れんか、慴伏して罪を父祖の靈に謝するとともに天不萬民に忍を乞ひ潔く武人の面目において處決せんことを。

    社說 新規增稅は是非必要 社說


    明年度に於ける臨時軍事費豫算はソ支武力同時作戰を準備する必要上總額六十億圓に迫る巨額となるべく豫想されてゐるが、これが財源としての新規公債發行額も五十億圓を突破するであらうとみられてゐるため、大藏省當局は二億圓程度の新規增稅に就き具體的方策を目下種種硏究中であると傳へられてゐる。併し池田藏相は國民としては此際負擔の輕減を望むべき時期でないとの見解を表明しただけで未だ明確なる意思表示がないが、財界の空氣も漸次增稅の已むを得ざることを認める趨勢に赴きつつあるので、池田藏相は恐らく年內には增稅に關する政治的裁斷を下すに至るであらうとみられてゐる。

    數十億圓に達する巨額の公債發行を不可避とする現狀に於て少額の增稅を行つても九牛の一毛に過ぎず、それよりは勤儉貯蓄の徹底的獎勵に依つて公債消化力の涵養に努めると共に、金融機關の協力で公債の消化策を講ずることが肝要である。殊に民間の公債消化力は現在毫も行詰まらず、圓滑な賣行を見せてゐる際、不足財源は公債一本建を以て進んでも差支ないとの說も理由がないではないが、しかし莫大の軍事費調達を公債にのみ依存することは、萬一日銀のマーケツト・オペレーシヨン政策に行詰まりを生ずるやうなことがあれば、忽ち惡性インフレを惹起し、又公債の暴落となつて財界に多大の惡影響を及ぼす恐れがある為、巨額の不足歲入を全部公債財源を以つて賄ふことは決して健全なる財政策ではないのである。

    事變勃發以來我財界は尨大な軍事費の撒布及び生產力擴充政策の遂行に依つて非常な變化を生じて來たことは周知の通りである。これに依つて莫大な利益を獲得するものがあると共に、その反面に於ては平和產業や中小產業者中には轉業失業を餘儀なくされ、又は利益の激減をみたのも決して少くないのである。それ故に時局に依つて利益を增大した殷賑產業に對して增稅を行ふことは國民負擔の均衡を圖る上からも、又跛行的社會情勢を打開する社會政策的見地からしても當然斷行さるべきものである。又戰時に於ける國民の緊張を圖る上から云つても、この際膨脹した國家財政に對應すべき歲入政策として增稅を斷行することは當然なる措置であると云はねばならぬ。

    增稅額及びその方法は臨時軍事費と對應して決定さるべきものであるが、增稅に依つて一般企業心を萎縮せしめ、我國の最も必要とする生產力擴充を阻害せざる樣、十分硏究調查すべきであることは云ふまでもない。池田藏相が總動員法第十一條の配當制限問題に對しても非常に慎重な態度をとり、その財界、產業界に及ぼす影響を考慮し、結局傳へられるが如き折衷案をとつたことは、要するに、上述の結果を招來することを憂慮したからである。從つて池田藏相は增稅問題に對しても慎重な態度で臨むことは推察するに難くない。しかし增稅が國民負擔の均衡上、又跛行的社會情勢を打開する見地から不可避であるとすれば、大藏當局が硏究してると傳へられてる二億圓位ひの程度ならば、池田藏相も異議なからうと思ふ。又この位ひの程度ならば、財界、產業界にも大した影響はなからうと思ふ。

    敗殘の南京 國民政府建設の跡(三)/陳逢源 海外遊記

    史蹟と詩の古都
    南京は楚の時代の金陵邑にして三國時代の孫權が都として建業と稱し、其の後東晉の武帝が洛陽より南渡して茲に都を遷して健康と呼び、宋、齊、梁、陳に至る六朝の帝都として古くより知られてゐる。爾來幾多の變遷を經て明初洪武帝が又茲に都を奠め、永樂帝に至って都を燕京に遷したので北京に對する南京と稱してからやゝ衰微に赴いたが、尚舊都として昔日の面影を殘した。清朝の勃興するや福王を擁立したため又も兵火の厄に逢ひ、更に洪秀全の亂で十餘年に亘って占領したため、さしも榮華を誇った都も荒廢しうたゝ人をして麥秀の嘆を起さしめられたのである。
    殊に城內の南に當る通濟門附近には古詩にうたはれた有名な秦淮がある。傳說によれば秦始皇が高い所から南京に王氣あるを望んだのでワザと秦淮の運河を開鑿して天子の氣を斷ったと言はれてゐる。それがためか六朝の天子を始め明末の福王までも妖艶な美人を相手に聲色に耽けた結果、つひに國を亡した事は史實に徵して明かである。蔣介石も餘りに宋美齡を寵愛したとて六朝の天子の轍を踏んだとまで言はれた位で、とにかく南京にはいづれの王朝も長く續かなかった事が誠に不思議でならない。
    即ち秦淮は畵舫と美人の名所であるのみならず、歷代興亡の艶史を背景としてゐるから、單に一部の南朝金粉を讀んだだけでも解る通り古來文人墨客間に於ける吟詠の好題目たる事は故なしとしない。
    康熙年間の孔重任が明末の哀艶な歷史を劇本として書いた桃花扇は其の最後の一齣として人を動かすに足る左の一段がある
    俺曾見金陵玉殿鶯啼曉、秦淮水榭花開早、誰知容易氷消、眼看他起朱樓、眼看他讌賓客、眼看他樓塌了、這青苔碧瓦堆俺曾腄風流覺、將五十年興亡看飽。那烏衣巷不姓王、莫愁湖鬼夜哭、鳳凰臺棲梟鳥。殘山夢最真、舊境丟難掉。不信這輿圖換稿。讒一套哀江南、放悲聲唱到老。
    南京の史蹟として鼓樓の東南に當る北極閣は元の至正元年に建設した現象臺であり、其の東南のやゝ低い所にある鶏鳴寺は六朝時代建康宮の跡にして梁の武帝が或る日明け方此地に行幸して始めて鶏鳴を聞いた所で南朝四百八十寺の一である。寺の東麓に陳の後主が絕世の佳人張麗華及び孔貴妃と共に隋兵を避けた景陽井があり、井欄の石を拭けば胭脂の色が現はるとて一名脂井とも言はれてゐる。寺と北極閣の間に臺城と稱して晉以來の健康城址がある。
    寺の北東にある玄武湖は六朝時代樂の塲所で、周圍六支里の湖の中には歐、亞、米、濠、アフリカの五大陸となぞへられてゐる五つの島があり、現在五洲公園と稱せられてゐる。紫金山は一名鐘山、市の北東にあり其の狀龍蟠の如しと言って市の西にある石頭城が其の狀虎踞の如しに對し南京を龍蟠虎踞の帝王州だと李太白が詩にうたったのである。紫金山の麓に明太祖及び馬皇后を埋葬した孝陵があり、其の東に中山陵が新らしく建てられてゐる。
    南門外の小丘は雨花臺と稱して梁の雲光法師が頂上に於て說法した際天これに感じて雨花を降らしたとの傳說があり、揚子江を眺めるに最もいゝ所である方孝孺と謝安の墓が茲にある、臺の北にある報恩寺と紫金山の麓にある靈谷寺は共に南朝古寺の跡である、城西の漢西門外の莫愁湖は宋の佳人盧莫愁の遺跡で、湖畔には明中山王徐達と明太祖が碁を圍み明太祖に勝ったので賜はれた勝碁樓があり、樓上に莫愁と徐達の小像がある、漢西門內の左方に清涼山があり山上には清涼寺、翠微亭及び掃葉樓がある、此の外南京の古蹟として之を枚擧するに遑はないが、いづれも今回の旅行と緣がなく筆に古詩金陵懷古の舊詩を披露して置かう。
    金陵懷古
    六朝事去又南朝。王氣金陵一例消。唯有舊時風物在。板橋明月大江潮。
    禾黍明宮慘不春。孝陵風雨夜飛燐。徒誇虎踞龍蟠地。如此江山付美人。
    甲帳樓臺無處尋。春灯燕子久銷沈。獨留一片秦淮水。長使風流擅古今。
    傷心梁武困臺城。玄武湖仍夕照明。江左又經戎馬後。不單愁煞瘦蘭成(寫真は南京明孝陵)

    心聲 漢詩

    與式穀畏友夜話卽似灌園主人指謬/竹軒、次竹軒與式穀畏友夜話卽似灌園主人指謬原韻/灌園、和簡荷生君瑤韵/南都、和簡荷生君瑤韵 二/南都、和簡荷生君瑤韵/雪漁、和簡荷生君瑤韵/鷺村、和簡荷生君瑤韵/銘珊、和簡荷生君瑤韵/可軒、過礪心齋賦似主人/仰山、不盡/仰山、夏屋/仰山、野望/仰山

    全國社會事業の 機構擴充案成る! 近く認可を得る運び 頭條新聞

    【東京十三日發同盟】政府は豫てより清浦伯を會長とする財團法人中央社會事業協會を改組し全國社會事業の連絡統制の強化を圖る意向の下に同協會の赤木理事長を中心に同協會の機構擴充に關し諸種の準備を進めてゐたがこの程漸く成案を得、近く認可を得る運びとなつた、同協會の改組に依つて地方の道府縣社會事業協會は總べて本協會の正會員とし夫夫府縣內の社會事業團體を指導し更に恩賜財團濟生會、慶福會、愛育會、全日本方面委員聯盟、日本赤十字社、中央融和事業協會等の社會事業中央團體は特別會員として參加し茲に社會事業の綜合的機能が發揮されることになる譯である

    社說 事變犯罪の滅絕を期せ 社說


    本紙昨夕刊に報道された臺北州士林街に起つた不祥事件の內容真相については未だ十分知る由もないが仄聞する如く○○○○忌避を繞る卽ち事變と直接關係を有する犯罪であるならば實に憎むべき行為と云はなければならぬ。
    今次事變を一轉機として本島人の皇民化が飛躍的に進步した事はあらゆる實情に徵して何人も之れを確認してゐるのである從つて今次事變によつて本島人の皇民としての信用を極度に高め殊に第一線に於いて皇軍に伍して活躍する軍夫や上海へ派遣された農業義勇團の働き振り南支攻略に際して徵傭されたインテリ階級の通譯陣の活動、又占領地域各所に於いて活動する一般本島人の活動宜しきを得て今や全國的に本島人に對する信賴の念が高められつつある事は獨り本島人のみの祝福ではなく日本のために誠に祝福すべき現象である。

    南支の攻略は愈愈臺灣の地位を重要ならしめ其の物的要素において人的要素に於いて切實に重要性を强化しつつあり南支の建設は臺灣の手によつて行はなければならぬ役割を我我臺灣島民がになつてゐるのであるから殊に人的要素としての重大使命を持つ本島人としては一段と信用を高めなければならぬ秋において、いまはしき犯罪者の現はれる事は實に遺憾に堪へざるものがある。
    平時に於いても犯罪者の居る事は勿論惡いのであるが國家が其の興亡の岐路に立つて戰ふ戰時下に在つて己れ一人の安逸を欲せんとするが如き慾望を抱く事其れ自身でも一種の犯罪と見るべきであるのに嚴肅なる國法を犯して自己の安逸を計らんとする行為に至つては如何なる事情ありといへども斷じて許すべからざる行為である。

    士林に起つた不祥事件は役場の上層役員、仁を業とする醫師等によつて構成されてゐるやうだがもし事實とすれば實に彼等は今大陸にあつて本島人のために萬丈の氣をはいてゐる戰線の雄者や銃後を守る五百萬本島人の顏に泥を塗つたも同然である勿論吾人は五人や十人の不心得者が現はれたからと云つて全般的に觀る筈は無いのであるが本島人と云ふ特殊の環境から見て全體に及ぼす惡影響は決して尠くないのである。獨り士林事件のみならず斯の種犯罪者の存在に對しては當事者個人としての制裁を與へるだけでは許されないものがある、殊に其れが智識階級であり指導階級である場合は尚更である。
    戰時下においては例へ無智者のコソ泥棒にしても平時の場合よりも社會道德上から云つて、其の罪は深い、殊に事變と直接關係を有し事變の目的に反するやうな犯罪が、しかも智識階級において行はれると云ふ事は何んと云つても許すべからざるもので己れ一人の範圍ではすまされない、五百萬人へ直ちに影響する事を思ふ時其の罪たるや斷じて見逃すべからざるものである。さればお互ひ自治的に斯る犯罪を未然に防ぐべく努力する事が最も肝要である。

    敗殘の南京 國民政府建設の跡(四)/陳逢源 海外遊記

    玄武湖.中山陵と譚墓
    前回の旅行で既に南京の史蹟を一通り見物したから、今回はそれを拔きにして特に玄武湖と中山陵の附近を觀察する事にした。即ち双方とも國民政府の手で一つは首都の公園として、一つは國民革命の權化孫中山を神格化する目的の為に建設したものだからである。案內者は黃凱吾君の外に舊友林耕餘君が加はってゐる。林君は現在外交部通商司長として私より二日前に上海より維新政府の諸機關と共に移して來た許りである。自動車は中央黨部の前を通って玄武門を一歩でも出れば半ば褪せかかった荷葉で半分位蔽はれた玄武湖が眼前に橫はってゐる。
    湖としてはさう廣くないが、東には紫金山が朝日に輝き、西北の下關には遙か獅子山の砲臺が見えてゐるから、あたりの眺望も惡くない。湖中にある五洲の內亞洲及び歐洲は陸つゞきであり、そこまで散策すれば長隄の楊柳が風に搖られて黃ばんだ梧桐と共に沙禽水鳧と相隱映してゐてなかなか棄て難き趣がある。南京占領後既に十個月も過ぎたる今日多少荒れかゝってはゐるが、國民政府時代に入念に手入れした事がハッキリ見える。湖邊には貸船が四五艘淋しく橫付けた儘殆ど利用者がない
    明湖春で謝進來君の招待で中食を濟ました後、又も黃君の案內で軍官學校、飛機場及び明故宮を通って中山門で戰跡を參觀し、城門を出て一路中山陵まで自動車を一氣に飛ばした。中山陵は紫金山の中腹にあり四百萬元を投じて丘を削り野を埋め極めて廣い場所へ白色燦然たる現代的墳墓を造り、其規模の宏大な事は歷代帝王の墳墓をして顏色なからしめる程である。墓前には博愛及び天下為公と書いた二つのアーチがあり、直ちに數百段の石段がつゞいてゐるが、現在では其の半から上は一般の通行を許してゐない。多分戰爭で壞したためであらうが、墓前にある純支那式の甍で造った堂々たる樓門は一寸他で見られない偉觀である。階段の兩側に松や杉等が規則正しく植えられてゐる。此の附近一圓を中山陵域として紫金山の山腹まで悉く綠化した許りでなく、自動車道路も立派に造られてゐる。私は十數年前明孝陵へ行く途中隨分惡道路に惱まされたが、此の邊がかくもキレイに整頓された事は全く意外でした。
    中山陵の傍から更に登れば革命紀念館がある。二階建の瀟洒な建物であるが、今や室內の記念記録やガラス窓まで見る影もなく散々に破損せられてゐる。其の背後には民國二十年に竣工した許りの八角形九層の國民革命軍將士陣亡紀念塔がある。凡て石で造った極めて堅固なもので、螺線の階段から上へ登れば南京附近の景勝が一眸の內に收められ真前には牛首山が二つの峰を突出し、遙かに見える揚子江が夕日で光ってゐる所は流石佳麗の江山たるに相應はしい眺めである。
    自動車を更に飛ばせば譚墓即ち故譚延闔の墓がある。國民黨の功勞者及び前行政院長を待遇するに相當立派な墓である。墓道の傍にある紀念堂には各省から贈られた花瓶が並んでゐたが現在凡て跡形もなく地上に打ち壞されて誰も顧みる者がない。國民政府の華かなりし時代から見れば一抹の哀愁なきを得ない
    聞くところによれば目下中山陵をどう處理すべきかと問題にされてゐるが、私は明孝陵の如く一つの歷史的古跡として之を保存してもいゝと思ふ。殊に孫中山其のものは決して排日主義者でなく、支那歷史には到底抹殺する事の出來ない偉人であるから、此の點も餘りに窮屈に考へない方がよくはないかと思はれる。【寫真は□麗な中山陵】

    明後年度を期して 稅制を根本的整理 眾議院の豫算內示會 池田藏相言明 頭條新聞

    【東京十四日發同盟】明年度豫算に關する豫算內示會は十四日午前十一時三十分より藏相官邸に開會眾議院各派代表を招待の上池田藏相より豫算の編成、公債の消化、財政の改正、國際收支等に關し詳細なる說明をなしこれに對して各派より種種質疑應答があつて後午餐を共にしたが池田藏相がその說明において昭和十五年度を期して中央地方を通ずる一般的財政改正を實現し事變下の長期建設に伴ふ財政經濟政策に適應せしめんとする意向を表明し注目を惹いた尚午後五時よりは貴族院各派代表を招待の上同樣藏相より說明の後質疑應答ある筈。
    【東京十四日發同盟】池田藏相は十四日の明年度豫算內示會席上增稅及び稅制整理に付き政府の意向を表明し特に中央地方を通ずる根本的稅制整理を明後年度昭和十五年度より實施する方針を明かにした、右に關する政府の方針は左の如きものである
    根本的稅制整理中央地方を通ずる稅制の根本的整理に就ては前議會において賀屋前藏相の答辯したる如く事變下において國民所得の變化甚しき際事變の一段落を見るまでは困難であるとされてゐたが事變は今や文字通り長期戰に入りその終了する時期に付ては全く見透しを得難い現情にあるのでこれを何時までも遷延すべき時期にあらずとなし愈愈明後年度を期してその實現に努力することとなつたものである。

    社說 日ソ關係の新段階に備ヘよ 社說


    抗日支那の落ち往く先は赤化以外になく、國民は須く思想戰の用意をせよと曾つて本欄に於て世人の注意を喚起したことがあるが、不幸にして最近の事態は益益この見解を裏書きする新事實が續出するに至つたのである。卽ちチエツコ問題以來歐洲に於て閉出しを喰つたソ聯は去る六日佛獨兩國の平和非戰に關する共同宣言に依つて從來の佛ソ同盟は愈愈空文化になつたと傳へられ、ソ聯の國際的孤立は今や名實共に備つて來た譯である。斯くてソ聯は帝政ロシヤ時代に獨墺伊の三國同盟が成立して西方の進路を封ぜられた為めに、馬首を東に廻はして極東にその銳鋒を突進さす運命を荷ふに至つたのは蓋し歷史の皮肉と云ふべきであらう。東條陸軍次官が過日軍管理工場主の懇談會席上に於てなした演說のもつとも重要な一節に「今日以降に於ては其の欲すると欲せざるとに拘らず、蘇支二正面の武力同時作戰を準備するの必要に當面云云」に徵しても、明治三十八年に起つた兩國の戰爭の再現は既に不可避であることは明かである。茲に日ソ關係の新段階が展開するのは蓋し當然の勢ひと云はなければならない。

    支那事變はソ聯にとつて二つの重大なる意義を有してゐる。その一は抗戰支那の疲弊衰亡に乘じてレーニン以來の傳統政策たる世界革命の重要なる一環であるところの支那の赤化促進であり、その二はこの事變に依つてあはよくばその宿命的な勁敵である日本の國力を消耗し世界に於ける防共勢力の弱化を期待するにある。前者の企はその國際的孤立の顯著なることに依つて一層拍車をかけられ、後者に對する期待は日、獨、伊の防共樞軸の益益强化されつつあるのに脅かされ、愈愈血眼になつて來たのは見易き業である。而かも事變に於ける日本の偉大なる戰果と底知れぬ國力とを目の當りに見てゐるソ聯の心情は察するに餘りあるではないか。八方塞りのソ聯は最後の冒險として抗日支那と抱合つて支那赤化に全力を注ぎ、以て一筋の血路を打開せんとするはこれ亦當然の成行であらう。蔣政權が容共政策を取つてゐるとは云へ、ソ聯の支那赤化工作は多く中國共產黨に依存してゐることは周知の事實である。故にソ聯の支那に於ける動きは中國共產黨の動きを見れば自から明白である。

    武漢の陷落に依つて共產黨の勢力が著しく增大したことは顯然たる事實である。過般陝西省延安で開いた中國共產黨六中全會擴大會議に於ては、遂に「國民黨五中全會に對し國共兩黨より成る共同委員會の設置を要求する」と云ふ示唆の深い一項を決議したのである。敗戰支那の內部情勢は共產勢力の擴大に絕好の條件を具備してゐる。この機會に「全支赤化」の基礎を確立せんとする延安の中國共產黨六中全會の決議と通牒は果して國民黨內に大きな波紋を描いたが結果原則的にその提案を受け入れると云ふ態度を表明したやうである。この問題は中國共產黨の呼號する「大西北死守」と相俟つて共產黨の赤化工作の具體的方針が察知されるのである。卽ち陝西、甘肅、寧夏、青海、新疆等所謂大西北地方は共產黨の地盤としてその軍事を一任されたこととなり、而して西南卽ち雲南、四川、西康、廣西、貴州は國民黨及び中央軍に讓る代りに、國共共同委員會の設置に依つて西南に於ける共產黨の自由な政治的活動を試んとするものである。換言すれば中國共產黨は西北は兵力で、西南は政治的壓力で支那赤化の本格的コースを驀進しはじめたやうである。

    皇軍の河北、山西の肅清工作が進捗し、我が攻略態勢が整ふや敵は皇軍の次期作戰目標は所謂赤色ルートの切斷に在りとなし、狼狽して軍隊の移動配置、裝備の改善、武器彈藥の供給、機械化部隊の配屬等活潑なる動きを見せて西北の局面は俄然異常の緊張を呈するに至つたのである。飽まで赤色ルートを保持せんとするソ聯は西北局面の緊張に無關心で居られる筈はない。最近この方面に於けるソ聯からの武器輸送が一段と拍車をかけられ、對蔣援助に積極的に乘り出し、伊犁、迪化を經由して蘭州に輸送される軍需品滿載のトラツクは一日に廿臺を下らぬとのことである。一方東北各地の西安軍中には多數の赤軍將校が配屬されて居り、日常の訓練は固よりトーチカの構築、新式兵器の操作などを指導してゐると傳へられてゐる。
    斯樣に軍事的にも政治的にも我が國は中國共產黨を介して愈よこれから開き往く新戰野に於て將又占領地域の肅清工作に於てソ聯の勢力と正面衝突を演ずるに至らんとしてゐる。國民はこの新情勢を深く認識して新たなる覺悟をせねばならないのは勿論である。

    敗殘の南京 國民政府建設の跡(五)/陳逢源 海外遊記

    秦淮畵舫の舊夢
    南京に着いた夕方頃林詩賓君からは何處かで晩餐を食べようぢゃないかと誘はれたので、私は是非秦淮の酒樓にして貰ひたいと注文した。私は曾て秦淮の畵舫で蘇樵山君と一晩夜あかしした事を今でも印象深く殘ってゐるからである。併し日中に始めて見た秦淮といふものは黑ずんだ水が苔蒸す古い酒樓や妓館の間に挾まれてゐて、これが詩でうたれた秦淮だとは一寸幻滅を感じた。ところが夜になると風景が一變する。兩側の酒樓や妓館の電燈が光り出すと共に絃歌のひゞきが絕えず流れ出した許りでなく、ガラス窓を嵌めた色彩濃厚な畵舫が何十艘となく角燈を點してそれがキラキラと水に映じたので、何んとなく妖艶な別世界が展開して來る大抵な畵舫にはそれぞれ美妓を載せて或は遊に耽り、或は麻雀をいぢるといふ風に支那らしい情調を味ふにはこれ程絕好な塲所はない。
    其の晚蘇樵山君の贔負してゐた小蘭花と彼女の弱輩たる小翠花及び小翠子を呼んで夫子廟の前から畵舫を乘り込んだ。南京の名建築たる夫子廟の大牌樓の前には常に畵舫が蝟集した事は誠に他に見られない皮肉な現象である。流石眼の高い劉明哲君も小蘭花の風韵が何んとなく普通の妓女と違ふ。これこそ南朝の金粉たるに愧ぢないと折紙を附けた。私共の畵舫はいくたの畵舫の間を潜って異樣な夜景に見とれてゐる時に、二三回走唱と稱して小舟に若い女を載せて來ては歌を聞かないかと強まれるまゝ一曲二十錢の割合で宵の大氣を漂はして歌はした事も秦淮情調の一つであった。板橋雜記にはかゝる情景をピッタリと描寫した次の一節がある。
    秦淮燈船之盛天下所無、兩岸河房、雕欄畵檻、倚窓綠障、十里珠簾、客稱既醉、主日未歸、遊楫往來、指目日某名妓在某河房、以得魁首者為勝、薄暮須臾、燈船畢集、火龍蜿蜒、光耀天地、揚槌撃鼓、蹋頓波心、自寶聚陶水關、至通濟門水關、喧□達旦、桃葉渡口、爭渡者暄聲不絕。
    夫子廟の前から通濟門までの間には利涉場、武定橋、文德橋等の橋があり、昔桃葉桃根の二美妓を妾にした王献之を每日小舟で迎へた桃葉もあって、私共の畵船は悠々と之を一往復すれば次第に傾けた明月もいつの間にか白らみ出し柳永のうたった今朝酒醒何處、楊柳岸曉風殘月の詞句も茲で始めて味得したのである。私共は其の後數回蘇君と共に小蘭花の河房を訪れたが、室內の設備もよく整理されなかなか感じのいゝ所であった古來秦淮に關する漢詩は汗牛充棟の有樣であるが私は最も知られてゐる清初詩人王漁洋の秦淮雜詩から左の五首だけを紹介して見よう。
    年來腸斷秣陵舟。夢繞秦淮水上樓。十日雨絲風片裏、濃春煙景似殘秋。
    桃葉桃根最有情。琅瑯風調舊知名。即着渡口花空發。更有何人打槳迎。
    舊院風流數頓楊。梨園往事淚霑裳。尊前白髮談天寶。零落人間脫十娘。
    傅壽清歌沙嫩簫。紅牙紫玉夜相邀。而今明月空□水。不見清溪長板橋。
    新月高々夜漏分。棗花簾子水沈熏。石橋巷口諸年少。解唱當年白練裙。
    かくの如く私は舊遊の地として左記二首の七言律を詠じた程今でも忘れる事の出來ない秦淮である。
    秦淮二首
    往日豪華夢未休。秦淮無處不溫柔。歌殘玉樹江南曲。酒滿彫欄水上樓。明月一輪桃葉渡。春潮双槳木蘭舟。我來寵柳嬌花地。散盡黃金尚滯留。
    舊院風流跡已陳。瓊枝璧月又翻新。六朝裙屐歸黃土。浩刼江山誤美人。燈火清淮天不夜。笙歌畵舫地長春。怪他一般臙脂氣。直把青溪化作銀。
    私は今回林君其の他二三の友人と秦淮へ來て見れば昔の面影更になく、實にあはれを催すに足るものがある。之を說明するに左記桃花扇の一節を擧げればいである。
    問秦淮舊日窓寮。破紙迎風、壞檻當潮。目斷浪消、當年粉黛。何處笙簫?罷燈船。端陽不鬧。收酒旗。重九無聊。白鳥飄々。綠水滔々。嫩黃花有些蝶飛。新紅葉無個人瞧。【寫真は夫子廟大牌樓前に蝟集してゐる畵舫】

    興亞院けふ事務開始 “東亞建設に萬全の努力!” 近衛首相談話を發表 頭條新聞

    【東京十五日發同盟】東亞新秩序建設の中樞機關たる興亞院の設置については一切の準備が完了したので十六日附官報をもつて興亞院官制同聯絡部官制その他各關係官制が公布されるとともに柳川總務長官以下の人事(既報の通り)發令舊貴族院內の假廳舍において事變の大理想達成に向つて輝しき事務を開始した。
    【東京十五日發同盟】近衛首相は興亞院官制及びこれに伴ふ關係勅令公布とともに左の談話を發表した、
    本日茲に興亞院官制及びこれに伴ふ關係勅令の公布を見東亞建設の使命を擔ふべき行政機關の整備を見るに至つたことは今や支那事變が既に建設に着手すべき段階にまで發展して參つた際に於て真に意義あることと考へるものである今次事變の最終目的が武力的勝利のみに非ずして支那の更生及びこれに伴ふ日、滿、支三國間の提携の上に立つ新東亞體制の確立にあることは政府の曩に天下に闡明したところであるがこれがためには優越なる武力に訴へて抗日容共の政權を覆滅しむるとともにその成果を援用し支那民眾をして真に日支提携の合理性と正義性とを自覺せしめ政治、經濟、文化の各般に亘りて互助連□の實を擧げて參らねばならぬのである然してこの事業たる真に至難複雜でありその手段も亦廣汎多岐に亘るのである畢竟國內各般の力を綜合使用して行くに非ざればその成果を期すること難いのである、今日設置を見た新機關は將にこの要求に副はんとするものであつて內には支那事變處理に關する國內諸般の力の綜合調整を圖り外には聯絡部を通じて支那現地との連絡を執り真に對支政策の樹立及び經營の中樞として活動して參ることとなるのである政府はこの新機關の整備に伴ひ一段と充實強化せられたる態勢の下に東亞建設の企畫運營に萬全の努力を効し以て一層力強く本事變究極の目的達成に邁進する決心である

    社說 非常時生活の確立が急務 社說


    廣東武漢陷落後に於ける內外の諸情勢に對應すると共に、いよいよ長期建設の體制を整へ、聖戰の目的達成を期せんとする事變二年目の掉尾を飾る經濟戰强調週間は、昨十五日より全國一齊に開始された。本運動は本年七月開始されて以來、國民的運動として行はれて來たのであるが、今回は年末年始を控え特にその意義重大なものがある。師走も半ば過ぎて各家庭では戰捷の春を迎へるため家庭經濟上最も消費の多い時であり、經濟戰强化上最も自肅すべき對象となるものが多い。卽ち本週間中の行事として揚げられてゐる生活刷新・貯蓄奬勵・物資節約の三大スローガンは本週間中に勵行して其效果の期すべきところ大であるからである。

    朔風吹き荒ぶ第一線の將兵の困苦を思ひ浮べよ、忘年會や新年宴會は自ら遠慮するであらう。年末年始の廻禮の如きその他一切の虛禮を廢止し嚴肅にして且つ質素なる戰勝新年を迎へ愈よ不退轉の戰時生活を確立すべきである。畏れ多くも常に御節約遊ばす皇太后陛下には一層御緊縮の思召を以て歲末の御贈答を御取止め遊ばされ、尊き御範を垂れさせ給ふ御由に漏れ承り誠に畏き極みである。宴會費用を前線の慰問袋に、お歲暮を出征遺家族慰問金に置き換へ前線と銃後に溫い心を通はせるなど最も良い思ひつきであらう

    殊に歲末に際して注意すべきは買溜めをなさざることである。餘裕あるに任かせて作らぬでも濟むものを作り、又は買はぬでもよいものを購入することは、物資節約の主旨に反するのみならず、又物資活用の國策に協力する所以のものではない。各自の家庭で點檢して間に合ふものは間に合せて置くべきであらう。本週間中の三大スローガンの中自肅の對象となるべきものが多いと云ふのは、この消費節約にあるからである。假りに一戶平均二圓節約したとする、全島九十萬戶と見て一百八十萬圓の莫大な金が浮び、僅かの節約でもこれを全國から見れば莫大な數字に上るものである。

    長期建設に處せんがため、軍事費と共に豫算も次第に膨脹して來た。增稅や數十億圓の公債發行も不可避となつてゐる現狀、銃後國民として負擔の輕減を望むべき時期でないことは言を俟たざるところである。しからば如何にして國民はこの難局を切り拔けるか、それは國民各自の生活を刷新する以外に方法はない。生活を切詰めて非常時局に卽應することである。卽ち非常時局を吾吾の日常生活に移し、所謂非常時生活をなす以外に方法はない。この點一家の經濟を掌る主婦に重大な責務が負はされてゐるのである。衣食住に注意を拂ひ、常に最小限度の豫算を立て、節すべきは節して生活水準を引下げなければならぬ。特に歲末の經濟週間に當り主婦の協力に侯つべきことが多いことを痛感するものである。

    敗殘の南京 國民政府建設の跡(六)/陳逢源 海外遊記

    生氣を帶びた南京
    秦淮の酒樓は南京攻略前から大部分は既に廢業し私共の上った太平洋菜館は名こそ頗るハイカラではあるが、何んとなく黑ずんだ舊都らしい古い二階建で秦淮に面してゐる欄杆は朽ちかかってゐた。向側にある家屋といふ家屋は敗瓦殘垣の儘にを雜亂を極め、滿目凄凉の感を起さしめてゐる。秦淮の水は一入淀んでゐる許りでなく、處々に畵舫の殘骸が死の街の如く靜かに橫はってゐる。佐藤春夫が廢墟の美しさを取り立てゝ描寫した事はあったが、今日の秦淮こそは詩人の靈筆に託してかゝる哀愁を描くに此の上もない適當な所ではないか。
    秦淮の妓女も南京陷落前にいち早く四方八方に離散し、最近治安の恢復と共にボッボツ歸って來たが、最早往日の派手やかさはない。間もなく王鳳英と黃桂春と名乘る二人の美形が入って來た。鳳英は稻江の林鳳英と同名の色の白い丸顏の持主でペン部隊の大將たる菊□寛が漢口へ赴く途中に南京で呼んだ時頻りに賞讃したと聞いてゐる。桂春は痩形のスッキリした支那型の美人で多少年を取ったが、其の閑雅な素振は流石名妓た面影がある。歌はどちらもうまいが就中桂春の方が一層洗練されてゐる。折しも舊曆の中秋に近づいたので暮色の消え行くにつれて皎々たる月光が愈々冴え出して來た。
    私はかゝる情景によって沁々と詩興を唆られたので即席に左記二首の詩を作った。
    重過秦淮
    畵舫笙歌盡化塵。六朝粉黛已無人。凄涼壞瓦殘垣裡。難覔秦淮舊日春。
    太平洋菜館卽興
    水榭瓊樓半已斜。傷心偏問刼餘花。不橫白日新亭涙。來醉青溪舊酒家。異地徵歌猶有鳳。西風疎柳寂無鴉。故都邂逅情尤切。莫向尊前驗□華。
    翌晚私は明湖春で林耕餘君と黃凱吾君の招待宴に臨んだ時に維新政府外交部總務司長冐景瑋君も陪賓として出席し、○○少佐とも同席だったので一時は頗るにぎやかでした。冐さんは清初明末の名士冐辟彊の血筋を引いた江南如皋の名門出である冐辟彊と言へば巢林公とも尊稱せられ、秦淮の名妓にして且つ絕世の佳人たる董小宛との艶史が既に張明弼の董小苑傳によって其の逸事が廣く文人墨客の間に傳へられてゐる。私も冐辟彊の筆にした影梅菴憶語によって支那の女性も董小宛の如きしっかりした麗人があると思ふと、秦淮も強ち此の儘葬り去るべきでない氣がする。
    冐さんは私の名刺を見た時に巢林公と陳其年とは非常に親しい友達だから、陳と冐とは因緣が深いと言って外交官らしい愛嬌を振り廻した。私の秦淮の詩を見てから曰く、六朝の粉黛已に人なしとは少し言過ぎである。席上の黃桂春は秦淮を代表しても愧かしくないと抗辯した。そこで私は更に左の詩を書いて渡したら全く其の通りだと始めて納得した。
    瓊樹偏枯璧月新。秦淮畢竟未沈淪。小蘭去後風流歇。剩有清歌黃桂春。
    其の晚明湖春に於て近來になくにぎやかに歌を聞いたので敗殘の南京も何だか花柳界から生氣を帶びて來たやうな感じがする事實に於て此の北中山路一帶のメンストリートには早くから母國人の料理屋やカフェー等が續々開設され、過ぎ去った殺伐たる氣分も追々と消え行くにつれ人心も平常の狀態に取り戻した事は南京復興の先提條件である殊に維新政府があらゆる機關を南京に遷し終ったのであるから今後こそ次第に明朗化するに違ひない。
    私は最後の晚黃君の官舍のペッドの中に於て月光の下に搖らぐ楊柳や梧桐の疎影がヒラヒラとガラス窓に投影してゐた詩の如き世界を體得しながら南京はいゝなあと一入愛着を覺えたのである。將來の首都を北京にするか、或は南京にするかは之を評定するになかなか困難な問題であるが、私は新政府としては折角國民政府建設の跡を引繼いだのであるから、更に立派な都市を建設すべき事を南京將來のために祝福したい。(終)【寫真は南京市の鳥瞰圖】

    わが提案に對し 廿日まで回答せよ 西參事官が申入れ 日ソ漁業問題 頭條新聞

    【東京十六日發同盟】日ソ漁業條約問題には關し西在モスクワ帝國大使館參事官は十三日の東郷リトヴイノフ會談に引續き本省よりの訓令に基き十四日午後シロノフ極東部長を訪問國內手續きの關係上日本側の提案に對し二十日までに回答ありたき旨を申入れた。

    社說 小運送業法と本島運用 中小業者の營業權を擁護せよ 社說


    戰時體制下の國民生活の安定を圖る為めに一般貨物の輸送と附帶運賃の合理的遞減策として內地では昨年春より小運送業法を實施し漸次その目標に向つて邁進しつつある。全國に於ける貨物輸送費は年額十億圓以上の巨額に上り、輸送機關の不整備と荷役料金の不統一に依つて國民經濟の上に少からぬ影響を與へて居る。その為めに鐵道省では數年前より小運送業者の合理的統制を行ふ計畫であつたが實現せず遂ひに昨年春の通常議會に同法案を提出し貴眾兩院を通過し、昨年四月五日に公布し、同年十月一日より實施を見たのである。內地に於いては鐵道、軌道、貨物自動車に依る運送營業者が一萬人を算へ、その間には信用薄きものあつて激烈なる競爭を惹起し種種なる弊害を釀して居つたので、政府が同法の實施に依つて新たに日本通運會社を創立し、全國小運送業者の統制に乘り出したのである。

    本島に於いては昭和十三年度の臺灣特別豫算案に小運送業法の施行に伴ふ經費を計上し、交通局鐵道部が主體となつて本島特殊事情を加味した附屬條項を立案し、本年夏拓務省を通じて法制局に提出し、慎重なる審議をパスし、去る十二月十二日閣議で同法案の本島施行を決定十五日の官報を以て公布した、實施期は大體來年二月一日と豫定し鐵道部では施行細則を立案中である、同法の本島實施に依つて島內に於ける運送業者も內地と同樣に合理的統制を受ける事となつたからその運用如何に依つては運送業者は勿論荷主に對しても相當の影響を與へる事となるので運用當局の善處方を期待されて居る。

    言ふ迄もなく同法の立法精神は國民經濟生活の安定を圖るために運送料金の合理的遞減を行ふ為めに業者の廢合を斷行し、經營費の節約に依り荷主の負擔を輕減し延いては一般消費者階級に對しても現在よりも低廉なる生活必需品を提供せんとの主旨であるから非常時局下に於いては最も緊急を要すべき經濟政策である、本島に公布した小運送業法はその許可權及び監督權を交通局總長の權限となし、內地の如く審查委員會制度を設置しない事となつて居るから免許事務の處理の上では內地より便利であるも、業者の生命とも言ふべき營業權の許可權を交通局に於いて獨裁的に掌握する事となるから同法の運用又は處理に對して若し一步を過れば內地よりも一層の弊害を惹起する虞れがある。

    この見地より同法の實施に依つて本島の運送業者が從來の自由營業が免許營業となり現在より革新されるものである殊に島內では大小運送業者が八百餘人を有し、その營業狀態より淘汰を要すべき業者も少くないが、多年心血を注いで經營して來た業者に對して一朝にして統制のために營業を取上げられた場合は由由しき社會問題となるから本島に於ける同法の運用に對しては特に中小業者の營業權を尊重すべきである、貨物輸送の合理化に依つて國民生活は勿論一般產業と經濟並に國防上にも重要關係を有して居るから運送業者としては重要國策を遂行する為めには協力すべきであるも、既得權に對しては當局が飽く迄も尊重すべきである過去に於ける經濟機構の統制を見るに中小業者の權益は無視される傾向があるから同法の運用に對しては特に留意すべき事である。

    東久邇中將宮殿下 御征步實に二千キロ 昨日故國へ輝く御歸還 頭條新聞

    【漢口十七日發同盟】畏くも金枝玉葉の御身を以て三軍叱咜の御重職に就かせられ去る五月の徐州大會戰には曠古の大勝を博せられ、更に歷史的漢口攻略戰に不滅の武勲を樹てさせられ十七日輝く御歸還の第一步を故國に御印し遊ばさるるに至つた東久邇中將宮殿下におかせられては實に八ケ月餘に亘つて前線將兵と共に具さに御辛勞をなめさせられたのみならずその御足跡は北中支全作戰地域にあまねくその御踏破遊ばされた征步は實に二千キロを超ゆるに至つた本年五月始め徐州を中心に隴海線沿線に雲集する敵大軍に鐵槌的打撃を與ふべく徐州作戰開始されるに先立ち殿下におかせられては、內地より北支○○に急行遊ばされ、○○指揮官の御重職に就かせられ世界戰史に特筆さるべき包圍大殲滅作戰を御指揮遊ばし、十數萬の敵を捕捉殲滅して赫赫の武勳を樹てさせられたのであるが、當時殿下の戰闘司令所は○○より○○へと第一線の前進につれて北支を御移動遊ばしたが、その戰闘司令所に於る御居室の如き□質素を極め、破れ天井より雀が舞ひ込み、或ひは夜は屋守が寝臺の上に落ちる等、申すも畏れ多きことのみであつた、御食事の如きも新鮮なる野菜、魚肉等は殆ど不足勝ちであつた為干野菜に粉味噌、粉醬油等で御食事をお攝り遊ばすのが常であつた、しかも殿下におかせられては些かも御苦痛の色は拜されず常に勇氣凜凛時を選ばず幕僚より刻刻の戰況を御聽取遊ばされて必要なる御決裁御指示を與へられ夜も屢屢蠟燭の微光を賴りに深更十二時一時迄も御策案を廻らされるのが例であつたかくて徐州大會戰後御休息の間もなくいよいよ漢口攻略戰の戰機熟するに至るや駒を北支より中支に進められて南京に暫し御滯在の後八月二十五日幕僚を從へさせられ飛行機にて酷熱百三十度を突破する江北作戰基地○○に降り立たせられた。同方面の作戰開始の日取りについては殿下の御裁斷に依り明治大帝御即位記念日たる同二十七日を期していよいよ火蓋を切られた。これより先き殿下と共に北支より南□せる麾下將兵は炎熱と惡路と惡水の脅威を克服し黃河決潰の影響が集中せる津浦線蚌埠附近淮河の洪水を乘り超え○○に集結したのであるが、之が為め殿下には麾下將兵の健康に對し特に心勞をたれさせられ「兵の食事は如何か」「病兵への手當は行き届いてゐるか」等と再三ならず慈愛こもる御言葉を賜はつた、而して作戰開始に當つては特に麾下各部隊に對し正正堂堂と戰闘すべきことを特に御強調あそばされるところあつた、之が為め麾下將兵は常に感激を以て戰闘に臨み六安、霍山固始、葉家集、商城、光州、光山、羅山、沙窩、新店等大別山系北麓の敵據點を次次に撃破し十月十二日には遂に京漢線の最大要衝信陽をほふむるに至つた殿下の麾下部隊は更に京漢線西方地區及び沙窩、新店方面より大別山の大國防陣地深く突入したが降りつづく頑雨と增援兵を得て強化せる敵陣の為め將兵の辛苦は真に筆舌に盡し難きものがあつた。
    殿下におかせられては部下將兵の困苦に心を碎かせられ、將兵と同樣芋を食し水牛の肉に舌皷を打たせられたことなどは思ふだに畏れ多い極みであつた、然し乍ら殿下の烈烈たる御統率と麾下將兵の勇奮力戰によつて十月二十五日遂に漢口は占領せられ、殿下には十一月三日の明治節の佳き日を卜し、三ケ月の辛勞を共にせられた幕僚と共に飛行機にて大別山北麓の○○戰闘司令所より漢口飛行場に御着武漢の地に力強く第一步を御印し遊ばされ、直ちに祝賀場に臨み畑陸軍、及川海軍兩最高指揮官以下武動に輝く陸海諸將星と共に聖壽萬歲を唱和遊ばされたのであつた、斯の如く殿下には今次漢口作戰の御統率に當つては殆んど御寛ぎの御暇とては無かつたのであるがしかも兵馬倥傯の間殿下には作戰中前後三回に亘つて麾下部隊に從軍せる各新聞通信社特派員を御身近く召させられ謁を賜ひ、報道陣に對し深き御理解を御示し遊ばされ從軍記者はいづれも感泣したのであった。
    【御寫真は東久邇中將宮殿下】

    社說 帝大附屬醫專の獨立問題 內外情勢より必然的要求 社說


    本島に於ける各種專門學校中其沿革の最も古い者は現在の臺北帝大附屬醫學專門部である。同校は明治三十年四月臺北醫院附屬醫學講習所から醫學校となり、明治三十五年に初回卒業生を送り出したのである。其後數回の學制の改正を經て大正七年四月始めて內地と同程度の醫學專門學校となつたが、昭和十一年四月臺北帝大に醫學部が開設せらるるや、同大學の附屬醫學專門部に組織變更されたのである。勿論本島の內外に於て醫師たらんとする男子の醫學教育を施すに相違はないが、同校は創立以來三十有餘年間、全島に卒業生千六百餘名を送り出し、臺灣の醫事衞生に對する功績顯著なるものがあつた。つまり之れまで本島唯一の醫師養成機關として幅をきかしてゐた醫專が、一旦大學附屬として併合された後と云ふものは實にや文字通りの附屬的存在として扱はれ、學校に於ける醫療機械の諸設備、實習機關たる帝大附屬醫院等は原則的に大學部教授、學生の占用又は實習すべきものとなつたのである。於是乎、實際問題として專門部教授、學生は兎角寄生的繼子扱ひにされ、兩者間に面白からざる空氣が漂ふたわけである。夫れが遠因となつて、專門部教授、學生と全島各地で醫療に從事してゐる同校卒業生間に附屬專門部を大學と分離して元通りの醫專に獨立さすべき輿論起り、其實現運動を考究されてゐたのである。之が偶偶去十一月初め專門部教授小田定文博士が厚生省入りのため辭退の送別會席上の挨拶で同博士年來の宿望たる醫專獨立問題に言及し、獨立の必要を强調されたことが學生の耳に入り、遂に醫專の學生が獨立嘆願書を永井醫學部長に提出したのである。

    然らば醫專獨立問題の重要性はどこにありや。併合前の醫專は每年八十名宛募集してゐたが、學部成立後は四十名に減じ、別に學部四十名を募集したので、結局往時の八十名より殖えてはゐなかつたのである。今島內に於ける開業醫、公醫、官公立醫院奉職中の醫師を合計すれば一、八一七名(十一年末現在)で、同年末に於ける島內常住人口五、四五一、八六三名からすれば、三千人强に醫師一人の割合になつてゐる。衞生施設の完備してゐる東京市本鄉區の約千五百人に對する醫者一人の割合から見れば、衞生思想低く、施設不完備な本島としては醫者が未だ飽和狀態に達してゐないと云はねばならない。まして限地開業醫、醫生が尚全島各地に散在してゐる現狀に鑑みても、保健衞生、國民體位向上の叫ばれてゐる昨今の諸情勢よりしても、醫專の如き存在を必要とするのである。
    況や帝國は今や全支に鵬翼を擴げ、政治、經濟、文化諸事業の建設に邁進しつつあり、その大陸經營に伴ふべき衞生醫療諸施設に要する人材を送り出さねばならぬ實情に迫まられてゐる今日、大學令に基く醫育方針は固より理想ではあるが、前記臺灣の主觀的事情と地理的に帝國の大陸長期建設殊に南支經營の一重要役割を課せられてゐる本島の客觀的情勢としては、醫學部の如き長期間を要する大學教育よりも比較的短期間に醫學と醫術とを修め得る醫專の存在をより重要視すべきであり、時局下の切實緊要なる欲求であらねばならない。況や本島民に大陸進出の機會を與へ、將來日支兩國間の完全なる提携に實を結ばせる點より見ても、一層其獨立と擴大經營の必要を痛感するものである。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(一)/陳逢源 海外遊記

    山海關を越えて
    私は滿州國の視察を終へて愈々憧れの北京を指して立ったのは十月十八日奉天午前八時發の國際□車であった。汽車は長い間秋の收穫を濟んだ許りの荒涼たる平野を走ったが、大虎山からは漸く角立った連山が見え出し錦縣からは山も何もあって奉天以北の寒氣に比べれば大分暖かであった。間もなく滿支國境たる山海關に着いたのは午後三時過ぎであり、直ちに東洋館にトランクを預けてからポーターの案內で萬里長城の見物に出掛けた。
    山海關は一名楡關とも稱し前は萬里長城の起點たる渤海に臨み、背後には險阻たる高嶺を控へてゐるから燕京の天險として得難き水陸の要害地である。市街には平べったい屋根の平家が多く道路が殊に惡く、從来の政府は何をしてゐたかと人力車の上から不平たらたらであった程のデコボコ道路である。關城は三つの門を構えてゐるが、私共は南門及び中央門を通り抜けて東門で下車した。高さ三十餘尺の頑丈な城壁に上れば長城の大觀を一眸の內に收める事が出來る。即ち渤海方面から來た長城が更に北行する事二里餘にしてかど立った美しき角山に達しそこからは更に長蛇の如く自然の威力に抵抗しつゝ蜿蜒として山また山を越えて行く景観は何んといふ雄大な展望であったか
    從來萬里長城は今より二千二百年前の秦始皇帝の築造にかゝるものといはれて來たが、實は戰國時代から燕、趙、秦等の北方諸國が直接北方の蠻族と境を接してゐたので各國とも國境防備としてそれぞれ長城を築いだものを、始皇帝が天下一統の後更に修理□築して「西は臨洮に起り東は海に至る」といふ數百里に亘る大長城となったさうだ。
    現在の長城は決して一時代で作ったものでなく、數時代に亘って漸く完成したものである。即ち、漢の際は長城の第一期にして、三國時代が第二期、南北朝が第四期、唐末五代が第五期となし、契丹人が北支那の一部を占領してから始めて其の終末を告げたであらうといはれる。就中山海關の關城は明の永樂時代に築造したもので、私の上った東城の城樓は大分破損されたが、最近となって名所保存の建前から新らしく修繕されてゐる、該城樓の上に懸けてゐる「天下第一關」は明の蕭顯の筆になった美事な扁額で一字の大きさは恐らく一坪位のものであらう。
    私は城樓の下で寫真を撮ってからしばらく城壁を傳って北へ行けば、一點の曇もなき青い空の下には楡や柳等が半ば黃くなり、角山の背後には熱河あたりの高山峻嶺が群がってゐるか長城の大觀以外にいくら眺めても飽かないパノラマである。滿洲國の方向には奉直戰爭の際張作霖の造った砲臺の跡が山海關爭奪戰の史蹟として淋しく殘ってゐる。私はそこで作った詩は次の如くである。
    登山海關城樓
    □海波濤指顧問。長城幡上萬重山。秋空碧映榆林晚。昂首來登第一關。
    山海關の東門から更にポーターの案內で狹い裏街を通って八百年の歷史も有する三清觀と稱する古い廟を見に行った。廟の前に二本のスパラシイ高い樹があって受持の道士に樹名を聞いたら响楊と答へたが、どうもさういった名前を聞いた事がないから多分土地の俗名であらう。廟の中には元始天尊、道德天尊靈寶天尊等を祀り左右には玉皇上帝及び天皇大帝の塑像もあって道教の廟としては相當由緒のあるものらしい。
    私は汽車の都合で翌午前二時過ぎに更に北京行の列車に乘り込んだ。二等寢臺でひと眠りしてから醒めれば汽車は既に太沽の鹽田地帶より天津を目指して進みつゝあったが、天津からは白河の氾濫で一面の海と化し、漸く北支事變で有名となった豐臺を通って北京の正陽門車站に到着したのは大分豫定の時刻より遲れた午後の一時頃であった。【寫真は天下第一關の城樓下にある筆者(左)】

    賀陽宮恒憲王殿下 きのふ福岡に輝く御歸還 御東上の途に就かせ給ふ 頭條新聞

    【東京十八日發同盟】陸軍省發表
    今回軍參謀として武漢攻略戰に御勇戰遊ばされた
    賀陽宮恒憲王殿下には今般陸軍大學校兵學教官に轉補せられ今十八日午後一時九分御恙なく福岡飛行場に御歸還あらせられた。
    【福岡十八日發同盟】福岡飛行場に御安着あらせられた賀陽宮殿下には直ちに自動車にて福岡市榮屋旅館に入らせられ御休息の後午後六時十四分坂田驛發列車で御東上の途に就かせ給ふた

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(二)/陳逢源 海外遊記

    北京禮讚譜(上)
    今回の旅行は北京の滯在が一番長かった。大抵のところは一二晚か、長くて四晚も泊れば大して名殘り惜しさを感ぜずしてサッサッと引揚げたが、北京だけはいつ迄立っても身動きしようとしなかった。其の間に大同と熱河承徳へ旅行する期間を除いて約半箇月も夢の如く過ぎ去りく戀人と別れる氣持で歸裝を整はねばならなかったが、若し金錢と時間さへ許せばもっとゐたかったのである。
    殊に私は親友張我軍君の好意で張君の關係してゐる東和映畵公司の借りた事務所に泊ったため、大分安上りした事が何よりの助かりであった。映畵公司の事務所といっても實は開店休業中のガラ空で部屋の數が十以上もあるのに新民學院の教鞭を取ってゐる徐君といふ台灣青年と當差(召使)しか住んでゐないから寧ろ氣味の惡い程廣い邸宅である。塲所は黃城根と稱して帝政時代の皇城根から改名したところであるから、紫禁城の西にある中南海及び北海公園には近いので殊更ら騒音といふものがない。
    元來北京は內城と外城に分かれ、內城の中央に中南海及び北海等を含む舊內城があり、其の中央に紫禁城があって昔の內城は主として各種役所の所在地及び文武官僚の邸宅地で一般商人は外城にしか居住を許されてゐなかったのである。從って北京の大部分を占めてゐる內城には近代都市の附物である騒音の煩ひは殆どない。建物も帝政時代では皇居の威嚴を保つために原則として二階建以上のものを許さなかったので、大抵の家屋はユトリのある平家でいづれも頑丈な壁を以て圍んでゐるから、そこには工塲の汽笛の音もなく真に人の魂を鎮める詩が宿ってゐるやうな氣がする。
    併し北京の一大特色は東洋藝術の一大綜合殿堂を形成してゐる事である。試みに中南海の外廓から北海公園を通って景山の前まで歩いて見よ。途中には目醒むるが如き結構な排櫻があり北海の瓊島の上には玲瓏たる白塔があり、中南海の碧水に柳を映じたる景色があり、御溝のかなたに金色燦然たる角樓があり景山の五つの峰にはそれぞれ綺麗な亭子で飾られてゐる光景は全體として一大綜合藝術でなくて何であらう、若し日光の陽明門の結構さに陶酔した者が其の幾十倍又は百倍も大規模な此の北京の建築美を一瞥するならば何んな感想を起すだらうかと思はれる位である。
    更に紫禁城の正門たる世界一の大城門たる午門から端門を通って天安門に出て見よ、御溝に整列して搖曳しつゝある柳が如何に美しかったか左側の中央公園の樹木と左側の太廟の構內にある古柏が如何に昔の時代を偲ばせるに足るか、若し夕暮の太陽の淡紅の中に更に巨大な正陽門を眺めて見よ、此の平和な北京が凡そ近代都會とかけ離れた雰圍氣に包まれてゐる事を、即ち人間の有する夢がローマンスが現實の眼に映じられてゐるかの如く思はれ如何にのんびりとした心安さを感ずるであらう。
    平生口の惡い杉山平助氏さへも次の如く詩人らしい感覺で描いてゐる。
    北京のさらに大きい魅力は此の街ぜんたいに漂ってゐる飄渺としたニヒリズムの香りである、空の空なるかな、すべて空なりといふ言葉がこの街へはいって來ると、全身の細胞から私の肉身に沁みこんで來る。この天地悠久の偉大さに對して、百年や二百年の富貴權力何するものぞといふ氣持が絕えず實感として胸にこみ上げて來る云々
    即ち北京の美しさは封建時代の藝術の粹を集め、且つ封建時代の香りを多分に殘してゐるといふところは、近代文明の餘りに強い刺戟に厭いて來た文明人に取っては確かに一つのオアシスであり、魂の安住塲所であると言へよう。とにかく東洋文化の大殿堂に於て騒音の少ない詩の漂ってゐる都市としては世界の何處かに北京のやうな虹や幻の如き都が又とあるであらうか【寫真は世界最大を誇る豪奢な皇城の正門即ち午門】

    日滿支三國相携へ 互助連環關係を樹立 ステートメント發表 外相外國新聞通信記者招待 頭條新聞

    【東京十九日發同盟】有田外相は十九日午後三時三十分から官邸に在京外國新聞通信記者を茶會に招待してステートメントを發表するとともに一問一答の形式で帝國の支那事變を繞る外交方針と見解を明かにした、ステートメントの要旨左の如し
    十一月三日の帝國政府聲明に依り中外にこれを闡明したる如く日本の希求するところは東亞永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にしてこの新秩序の建設とは日滿支三國相携へて政治經濟文化など各般に亘り互助連環の關係を樹立することなり、日滿支三國が緊密な連絡體を造ることの必然性は政治的には赤化の魔手に對する
    自己防衛並に東洋文明の擁護の必要に依りまた經濟的には世界一般に廣く行はるる關稅障壁の傾向並に經濟的手段を政治目的に使用せんとする傾向に對し自衛手段を講ずるの必要に依り說明せらるべし支那を半植民地的地位より完全なる現代國家にまで引上げ行くことは支那國民自體のみならず東亞全體の利益なり然して日滿支三國互助連環の關係は
    日滿支三國が各自の獨立を維持し各自の個性を充分に活かしつつ東亞保全の協同使命の下に堅き結合をなすに他ならぬ、日本はこの新秩序の建設が國際正義に適ひ又東亞の平和に資するものなりとの堅き信念を有するものにして從つてこれが遂行に對しては確乎たる決意を有するものである□近來動もすれば所謂日滿支經濟ブロツク結成の結果
    日本は外國の企業資本、貿易などあらゆる經濟活動を東亞より排除せんことを考慮し居れりと曲解する向少しとせず歐米に於ける新聞雜誌の批評が多く斯の如きものなることは遺憾なり元來商業上の機會均等は從來日本の強く主張し來りたるところなるが事實は必ずしも日本の主張通りには行かず良質廉價の日本品は到る所差別待遇を與へられた日本は日本の經濟活動が
    世界の何れの部分に於ても原則として自由なるべきを主張するものである從つて東亞よりして歐米各國の經濟活動を全然排除せんとは考へ居らざるのみならず斯の如きは不可能事なりとさへ考へ居るものである、然し資源少く且つマーケツトを國內に持たざる日本、又經濟的に力弱き支那としては相寄相援けて必要物資の自給自足政策に必要な生產の確保を圖り
    萬一の場合に於けるマーケツトの確保を期することはその存立上不可缺と認むるものにしてその範圍に於て東亞以外の各國の經濟活動の制限さるることは之を認めざるを得ない、換言すれば從來支那における第三國の經濟活動は新體制に依つて結合さるる三國の國防及び經濟的自主達成に必要な制限を受くべきものにして且つ政治的特權を伴ふものならざることを必要とする次第であるがこの種制限は各國
    何れもその必要を認め居るものにして英帝國米國何れも同樣なりと思考する、而してこの種制限が加へらるるもなほ廣汎な商業的、經濟的活動の分野が列國に開かれるのである、日滿支におけるが如く或る程度緊密なる相互關係に立つ經濟集團が存在し組織されたとするもこれと
    他國との貿易は決して減少するものではなく却つてこれがため增加するものである要するに帝國の企圖する東亞新秩序の建設に依り東亞の天地は始めて恒久的安定性を與へられその結果列國の東亞における經濟活動も却つて確實な基礎の上に置かるるに至るべきことは余の確信して疑はざるところである。

    社說 本島戶籍制度の根本問題 戶籍法施行か特別令制定か 社說


    先月本島人間の親族相續に關する法令を制定する為、督府に於て法令取調委員會を開催した際、森岡會長より本島人の親族相續法に關する問題を解決すると同時に、その關係法令たる戶籍法令なども改廢の要があるとの意味を述べられたが、言ふまでもなく、昭和八年三月より施行された本島人の戶籍に關する律令に「本島人の戶籍に關しては當分の內臺灣總督の定むる所に依る」との如き律令自體に內容を有たない委任規定は過渡期の暫定的便法たるに過ぎず、その密接關係ある問題の親族相續に關する法令の制定に依つて、完全なる戶籍法令の制定も當然同時に解決すべきものである。

    ここに本島の戶籍法令の制定に關する根本問題としては從前の如き特殊立法主義に依り律令を以て內地と異りたる特殊戶籍制度を立てるか、それとも內地延長主義に依つて戶籍法を本島に施行し、內臺共通の戶籍制度を立てるかを先決せねばならない。謂はゆる內地延長主義または內臺一如の統治方針より見てまた最近皇民化運動の急激なる進展に鑑みて、戶籍法の施行を最も得策と云ふべく、且つまた特殊事情の最も顯著なる親族相續事項の立法でさへ民法の親族相續篇を本島人に適用する機運に進んできた今日、戶籍制度だけを猶ほ律令の特別立法に讓つて內地と並立する特殊制度を立てるべきではないと思はれる、然るに四十年來各種の制度上內臺人各別的に取扱はれて來た種種の因襲觀念や差別制度を取り除かない限り、今直ぐに內臺歸一の戶籍制度を確立する要望は容易に容れられないこととも思はれるのである、然し乍ら外國人が歸化すればその次代子孫からは純然たる日本人と異る所はないが、本島人は子子孫孫いつまでも本島籍民として內地へ本籍を移すことは出來ないといふやうな一種の限地國民として歸化人にも及ばぬ特殊地位に置かれてゐることは甚だ妥當を缺ぐ國策と非難されても已むを得ないであらう。

    遲かれ早かれ將來において戶籍法を本島に施行すべきことは內臺一如の統治方針より見て當然の歸結である。ただ爭ふところはこの二元的戶籍制度を今日より撤廢すべきか、それとも猶ほ三十年五十年存置せしむべきかにあるだけである。最近三年間の皇民化運動は從來の三十年間にも優る躍進的實績を擧げてゐる現狀より見れば、吾吾は內臺一如の統治方針に副はず、皇民化の急激進展を妨げるが如き內臺二元的戶籍制度は一日も早く內臺一元的戶籍制度に改むべきであると期待するものである。勿論戶籍法を本島に施行するには、其他の法令との關係上多少の除外例を設けねばならぬまた本島人には未だ兵役義務を負うてゐないから、兵役法にもその除外規定を設ける必要がある。しかし長久の國策を確立する上より考へれば、法令に些少の改正を為すことも固より已むを得ないことであらうと思ふ。要するに本島の戶籍制度を根本的に確立すべき機運に到達した今日、戶籍法を本島に施行すべきか、それとも律令を以て內地と異りたる特殊戶籍制度を存續せしむべきかは為政者は勿論一般識者も遠大なる國策の遂行に妨げなき最善の戶籍制度を確立すべきことを考慮せねばならぬと進言するものである。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(三)/陳逢源 海外遊記

    北京禮讚譜(中)
    北京のもう一つの特色は樹木の多い事である、若し眺望の最もいゝ景山の上から見渡せば、北京の市街には如何に多くの樹木を以て蔽はれてゐるかを發見するであらう、其の樹木の多くは數十年乃至數百年の星霜を經た喬木である事は、一層北京をして舊都らしい氣分を漂はしてゐるではないか、街路の並木たる榆や槐樹等を始めとして中央公園や中南海及び北海公園の楊柳までもスバラしく高く伸びてゐるので、それがどれ程北京をして奧床しくならせたか知らないのである、
    殊に廣大な天壇の構內には鬱蒼たる森林があり、中にも骨幹槎枒たる古柏が最も多く其の偉容たるや到底太廟の比でないから、全く見逃すべからざるものであらう、北海團城內にある承光殿前の白皮松も明朝時代のものに違ひなく、其の葉は三つの針と五つの針とがあって後者は栝だと稱せられてゐる。之に關して三海見聞誌には次の如く記してゐる。
    余無博物之學。經承光殿下者不下數十次。只見有白皮之樹最高。此外則樹木參天。勢甚奇崛。不辨其何者為松。何者為栝也。今攷高宗御製承光殿古栝行。始知五針者為松。三針者為栝云々
    とにかく高宗(乾隆)時代の古栝が今尚承光殿前にいきいきとして天を摩してゐる事によって、それが如何に古い歷史を有するかを知り得る筈である。
    かゝる古色燦爛たる市街に住んでゐる北京人は又支那のどこにでも見られない特別な鷹揚さがある。漢文では「落々大方」といって、單に北京人の凡ての擧動のみでなく、其の顏附も佛像に似たやうな溫和にして多少ボヤケてゐるところがある。南方の支那人にある一種激しい角ばった日本人らしい闘爭的な顏附と著しく對蹠的となってゐる。これがために北方の漢民族が御し易しとさへ一般にいはれてゐる所以である。
    私等も上海で人力車に乘ったら餘り狹い裏路へ入らうとする際には必ずそれを止めなければならない程常に神經を尖らしたが、北京ではどんな夜中でも平氣の平左である。却って人力車に乘って暗い胡同の道を通ってゐる時に、北京固有のセンスが油然として沸き出づるのである
    事變前北京各大學では頻りに排日の言動に熱中してゐても、北京人は別に日本人に對して惡感を抱かなかったし、大部分の民眾は我不關然としてかゝる笛吹きには踊らなかったさうだ。
    北京が首都となったのは今より丁度一千年前の遼(紀元九三七年)に始まり、降って金(一一五三年)は燕京又は中都と稱し、元(一二六七年)は大都とし明(一四二一年)は都を南京より遷し、爾後清(一六四四年)を經て民國の出來るまで京師となってゐた。即ち明を除く遼、金、元、清の各時代はいづれも漢民族ならざる塞外の夷狄の治下にあったし、民國革命以來袁世凱段祺瑞、黎元洪、吳佩孚、曹錕張作霖、馮玉祥、張學良等の督軍が瞬く間に演する盛衰興亡の劇的場面を眼のあたりに見て來たものだ。
    北京人ののんびりした顏附を見て憤慨する母國人もあるさうだが、私はかゝる北京人こそ北京の雰圍氣に最も相應はしい存在であり、かゝる襟度こそ又母國人の最も缺けてゐるところだと思はれる。
    然らば何が最も北京人をして興奮せしめてゐるかといへば、外ならぬ支那劇である。私はあとでの問題を詳しく紹介するつもりであるが蔣介石の華やかなりし時代でさへ、北京人には梅蘭芳程エラく見えなかったらうし、臨時政府の宣言よりも今日はどんな芝居があるかが寧ろ北京人の心事であるかも知れない。大通りの路傍にある揭示板には新政府の告示よりも殆ど芝居のプログラムで占領してゐる事等も又北京でなければ見られない現象なのである。【寫真は景山の綺麗な亭子(上)と宮城の角樓(下)】

    滿鮮視察記(一) 海外遊記

    日本と滿洲
    忠烈無双な我が皇軍が連戰連捷遂に支那大陸の半近くを席卷し、其の地域は已に我が國全面積の三倍に達すると言はれ、これに住む人口ね一億と稱せられてゐます。陣地の一角にも、城壁にも港灣にも到る處日章旗が翻飜として飜つてゐますことは、
    實に世界の歷史にも其のためしのない大戰果であります。武漢三鎮を攻略しました、我が精銳は、息つくまもなくさらに奧地深く進軍して四百餘州を洽く皇化に浴せしめ東洋平和の確立をめざし、意氣愈々盛んなものがあります。これは偏へに御稜威の下に國民の一致協力奮闘努力の結果でありまして實に喜ばしい極みであります私共は今次の事變で今更らのやうに日本の國力の偉大なことに、びつくりして居るのでありますが、それにも增して、一ばんに驚き怖れてゐますのは、戰 ひが長期に亘れば、きつと困るであらうと信じて抗戰を決心した蔣介石政權であり、續いては
    此の後押をした、ソビエト聯邦やイギリスなどでありませう。しかし、彼等はいまや日本の國力がもう頂上で、これから段々弱りかけ、最後の勝利は支那のものだといふ夢を見てゐるやうであります。全くお笑ひごとですが、さういつても決して油斷は出來ません。
    私は驚くべき日本の國力は決して內地だけの力でなく、日本が育て上げて來た滿洲國としつかり手を携へて、其の共同の上に立つ力であることを今度の視察で明瞭に知ることが出來ました。もとより、滿洲國は幾度か國が興り亡び、其の間惡い政治に良民は久しく苦しんで、產業は振はず、
    文化は遲れてゐたのでありますから、其の獨立後、今日まで日本が如何に多くの資本と、技術を供給し治安をたもち產業の振興に盡してやつたか判りません。しかし、今日の滿洲國は此の日本の情と助によつて、立派な國家となり目覺しい發展を見つゝあるのでありまして、しかも農工業の資源は無盡藏といふほど豐富であります。此のことは、それらの資源に乏しい日本としては、どうしても共存共榮の立場から、日滿一體となつて行かねばならないのであります。無限の寶庫が日本の資本と技術によつて、開かれ、其の共同の力が、現在の日本の國力となつてゐることを見逃してはなりません。
    日滿一體から進んでは日滿支一體が實現されるとき、初めて東洋の平和は確立されるのです。それは東洋の盟主としての日本の理想であり使命であります。私共は、どうしてもこれを成し遂げねぱならぬのです。
    此の大陸建設といふ大理想を成しとげる第一の體驗は、今現に滿洲國で、私共の同胞が困苦と戰ひながら、積んでゐるところです。これは今後支那大陸建設の標準ともいふべきものであります。私は視察地の至る處で大陸建設の勇しい勇士が元氣よく働いて居る有樣を見て喜ばしく思ふと同時に感謝に堪へなかつたのです
    これから感じた點を申し上げたいと思ひますが、先づ滿洲國に行く途中にある朝鮮について簡單に申し上げます。
    (つゞく)

    大南支建設に基礎 廣東に力強く建つ 感激と興奮のうちに 頭條新聞

    【廣東二十日發同盟】南支新政權の母體をなす廣東治安維持會は二十日午前十一時中山記念堂に堂堂發會の式典を擧げた、師走の候とは言へけふ南の國廣東の天地は薄曇で柔かい南國的樹木の爵蒼した中に碧青の瓦、赤色に塗られた壁の中山記念堂が觀音山を背景にして鮮かだ、中央公園正面に設へた大アーチに「慶祝廣東治安維持會成立典禮大會」と大書し五色旗と日の丸の旗が美しい定刻に早く一時間前から蔣政權の壓制に苛まれた市民は續續と押かけ今日こそは晴やかに日章旗と五色旗を振り手を把り誘ひあはせ老も若きも男も女も久し振りの晴衣に飾つて幸多からん今日の大會に集つたのであつた周圍を警備する皇軍兵士の態度は儼としてゐる小さい支那人が皇軍兵士の顏色を見て舉手の敬意をする、にこつと笑つてこれに應へる、名の知らない小鳥が樹間で喊聲を擧げる、開會の定刻迫る十時五十分頃集る民眾約三萬、口うるさい支那人もこの一瞬固唾を呑んで開會の宣言を待つのである、壇上左側に彭唐原委員長、呂春榮副委員長以下各委員着席左側には安藤最高指揮官以下陸海軍代表總領事等着席、嚴肅に歷史的な廣東治安維持會成立大會の開會が宣せられた、總員起立、敬禮の後陳紹唐準備委員管秘書長は起つて廣東治安維持會成立までの經過を報告する日本側各代表の祝辭が終つて今日の立役者彭唐原委員長の演說が始まる民眾は片言隻句たりとも聽き漏すまじと目を据え口許の筋肉を緩ませて傾聽するうちに數名の外人も交つてゐるが彼等も何事かメモをしてゐる肯づいたやうな顏をして見上るもの大きく肩で息つくもの三萬人の目は感激に灼けてゐる。委員長に次で呂春榮副委員長も言言火を吐く復興大廣東の演說をする大南支新建設の不動の鐵則は闡明された住民は安んじて業に就けるのだ、市民代表、自警團代表、婦女維持會代表の演說も歡喜に滿ちたものである。正午少しすぎ彭委員長の發聲で廣東治安維持會成立のために萬歲を三唱する民眾の聲は一に結ばれて高く高く南支の碧空に轟く午後零時十分陳秘書長の閉會の辭で典體大會は終了した。感激と興奮より覺め切らぬ民眾は憑かれたもののやうに一つの波となり流れとなつて會場を出て行く暑い南の太陽は彼等の肩をがつちりと押へてゐる。廣東治安維持會を祝福する強い光だ。

    社說 新東亞協同經濟の建設 社說


    有田外相が去る十二月十九日在京外國記者團に對して東亞新秩序建設の帝國根本方針を談話の形式で述べたる一節に「東亞再建の大業遂行については帝國が指導的役割を演ぜざるを得ない必然性並に帝國の高邁な理想は十九世紀末に列强が其の植民地に對して行ふが如き自國のみを利せんとする帝國主義的搾取的態度とは根本的に相違し東亞の真の平和を實現すべき健全なる秩序を建設し以て全世界に範を垂れんとするものである」事を大膽率直に中外に宣言した事は從來の列强に於て曾て見るを得ざりし現象なのである。

    かくの如き道義的方針をして有終の美をなさしむるには言ふ迄もなく東亞協同經濟の新建設である。卽ち日、支、滿三國の互助連環關係を確立すると共に支那國民の生活向上を圖る事をモツトウとしなければならないが、其の具體的方法は何であるかと言ふ事が最も大切な事柄ではなからうか。併し內地に於ける經濟組織は日支事變によつて大分統制せられつつあるが、依然として利潤を獲得する事を以て其の目的とする以上は支那への資本進出もかかる線に沿ふて行くに違ひないから之を何う調整せらるべきかはなかなか重大にして困難な問題である。若し此の問題を何かの形で解決しなければ所謂東亞協同經濟の建設は理想通りに實現し得るものではない。

    支那に於ける莫大な資源及び無限の勞力に對して巨大な資本を投じ又は交通の整備をなすにあらざればそれが利用は不可能である事は明かであり、それには支那國民をして衷心より抗日の無意義と東亞協同體の積極的意義を知らしめて之に協力せしめる事を前提とする外東亞を救ふ道がないから、かかる具體案な運用こそ此の問題を解決するキイポイントであると信ずるからである。有體に言へば現地では未だかかる東亞協同體の精神が乏しく、且つ進出資本も其の準備が未だ足りないようだから、今後の積極的對策に侯つべきものが多いと云はなければならぬ。

    かくの如く東亞協同經濟の建設は在來の行き方であつてはならない。今後經濟建設の途中に於て如何に支那人にも其の利益を均霑せしむべきかを現實に於て示す事が此の難事業をして急速度に進ましむる所以である。現狀では未だ支那國民に充分に徹底してゐないが、此の事業は外國の承認同意を求むるよりも寧ろ支那國民のよりよき理解が先決問題でなければならない。これを要するに帝國としては先づ國內の經濟組織たる資本主義的性格からより高き文化的階段へ高めるにあらざれば、真に世界に誇るべき東亞協同體は成立し得ないであらう。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(四)/陳逢源 海外遊記

    北京禮讚譜(下)
    北京の秋は天下一品と稱せられてゐる。私も實はワザワザ北京の秋色を賞すべく特に舊曆の八月末から九月に掛けて北京へ來たのである。なる程北京の秋は恐らく他に類例がなからう。即ち北京の秋は雨の少ない季節なので、どこまでも黃土の續く河北平野の上に圓蓋の如く垂れ下かってゐる空には一きれの雲どころか、一點の曇さへなき程によく澄み渡ってゐたものだ。
    つまり青天一碧とか、又は天高馬肥といふ文字通りの實感は北京近邊へ來なければ沸いて來ない。いはゞ空一面に青いガラスか、又は青い玉を以て張り詰めたスッキリした美感は、到底水蒸氣の多い日本內地や臺灣等で想像だに及ばないところであらう。況んや其の氣候は未だ寒くならざる涼氣身に泌み込む時に於ておやである。
    若し紅葉の美觀からいへば日光や寒霞溪あたりの如き色彩派手やかな秋はない。北京の西北郊外にある西山や香山の紅葉は到底比較にならぬ程貧弱なものである。尚柳の芽の萌え出した早春から牡丹の開く頃までの北京の春も特殊の薫はあらうが、日本內地の櫻花だとか、江南の妖艶な春色等から見れば別に取り立てゝ騒ぐ程のものではない。一般の氣候は滿洲に比べたらズット暖かであるから冬でもさう凌ぎにくゝはないが、困る事には五月頃蒙古風の吹く時に所謂黃塵萬丈の日が一二週間も打ち續く事がある。これが滿洲から北支一帶へかけての最も嫌な出來事で、北京唯一の缺點でもある。
    私はさきに北京には騒音がないといったが、それは他の都市と比較した上の話で實は紫禁城を中心として其の周圍には電車が走ってゐるから、多少騒音がないではない。極端な北京禮讚者は此の電車や東交民巷の外國租界を撤退すれば北京がもっと北京らしくなると主張してゐるが北京のやうな車賃の安い所では大して電車の必要はない。北京の車賃といへば事變前は一時間十錢拂へば大いぼりであったが事變後は物價騰貴と日本人の激增とによって約五割も高くなった。それでも市內の大抵なところは五錢から十錢乃至十五錢で行けるから、特に電車がなければ困るやうな事はない。其の代り人力車の數はなかなか多い。其の數はよく知らないが恐らく一萬以上に上るであらう位にどこへ行ってもウロウロしてゐる。此の車賃の途轍もない安い事が一時は電車をして營業不振に陷らしめ、且つ自動車の發達をも阻害して來た其の根強さは誠に驚嘆の外はない。即ち人間の勞働力が立派に機械の發達に對抗して行ける事は世界のどこにもない一つの奇現象であらう。其の反面には一箇月に五六圓から十圓あれば生活が出來るといふ安い暮しに根ざしてゐるからである。此等の善良な人力車夫がどれ程北京の騒音防止に役立ってゐるか、而も彼等が幸福さうに生きて行けるところにひきつけられるのだ。支那の大眾、特に北京の市民がそれである。
    此の默々として働いてゐる北京の大眾は決して跣を見せないでいつもチャントした靴下と靴を穿いて走ってゐるから、如何にも上品さうに見える。大連あたりの埠頭力に比べれば流石大分リファインされてゐる。殊に彼等が彼等の樂天地たる天橋へ遊びに行く時には長い袍子を着る事を決して忘れてゐない、彼等こそは五千年の漢民族の血を受け嗣いだ文明人であるかの如き顏附をしてゐる。彼等は麥粉で造った麵包に蔥を挾んで三つか四つ食べればそれであの恐るべき勞働力を發揮し得るではないか、かくして一食三錢乃至五錢で暮せる支那の勞働大眾は殊に北京に於て私は限りなく懷かしき存在であると感ぜざるを得ない。【寫真は北海の漪瀾堂から白塔を望む景観】

    滿鮮視察記(二) 海外遊記

    朝鮮の話
    朝鮮は遠い昔から、日本とは、最も密接な關係のあつた國で、地理上から見ても少し天氣のよい日は、海を隔てて對島の山々が見える位ですが、交通不便な昔には、凪の海路でさへ二日かゝつたと言はれ、內地から朝鮮に行くといふことは
    遠い外國へでも行く樣に騷いだものです。今は七千噸級のすばらしい客船で、下關から釜山まで僅かに七時間餘九州の人は大阪や東京に行くよりも近いのです。昔は虎が出たり、山は禿げて川は涸れ、野には作物も出來ぬ處といふ樣に思はれてゐましたが、今の朝鮮はそんな處ではない近代文化の施設は大體內地に劣る樣なことはなし、まことに氣持のよい明るい朗かな平和郷となつてゐます。鐵道は廣軌と稱して、內地よりはずつと廣く車內はゆつたりとしてゐます。車窓にくり展げられるあたりの景色も、
    山は植林が行き屆いて內地のやうに青々と樹木が成長し、野には稻や、粟が立派に出來てゐます。 米で見ても年產千九百萬石に達し、每年內地へ九百萬石を移出するといふ有樣です。朝鮮は新しく開かれただけに農工商、或は、天然資源等の各方面に亘つてまだ開拓進展の餘地が多く近ごろ內地の人々もどんく朝鮮に資本をかけ事業を始められるやうになり、非常にすゝんで來ました。二十數年前、すなはち併合當時僅かに六千萬圓しかなかつた貿易額が昭和十一年には十三億五千五百萬圓の巨額になつて居ることだけでも、產業の發達が想像されます。釜山から汽車で行くく晴朗な日を浴びながら冠を着長い煙管をくわへて悠々と道を行く有樣や、洛東江の岸邊で洗濯をする
    鮮女の姿を見ながら、約八時間で朝鮮中央の大都京城に着きます。こゝは李王朝五百年の古都で、人口が、五十萬、半島の政治、教育其の他の中心地であります。三方が山に圍まれ、山の頂上には十六粁からの城壁を繞らし南大門、東大門の二大門は今猶ほ嚴めしく古代朝鮮の文化の面影を殘して居りま す。(つづく)

    東久邇宮殿下御入京 直ちに御參內軍狀を御奏上 頭條新聞

    【東京廿一日發同盟】大陸の御征旅に三軍を御統率遊ばされて八個月、武漢攻略に不滅の御武勳を建てさせられた東久邇中將宮殿下には二十一日午後二時二十五分東京驛御着、畏き邊りから御差遣の清水恃從武官をはじめ朝香軍事參議官宮賀陽大佐宮兩殿下
    閑院參謀總長宮殿下御使佐藤御附武官其他各宮家御使、板垣陸相外各國務大臣、西尾教育總監、東條航空總監、川岸東部防衛司令官中島參謀次長其他陸海軍將星等百官の御出迎を受けさせられ晴れの御歸還遊ばされた殿下には一旦驛貴賓室で御少憩の後宮中より御差廻しの自動車に御乘車、堵列市民の奉迎に擧手の禮を賜ひつつ二重橋正門から軍狀御奏上のため御參內あらせられた
    この日天皇陸下には御軍裝御凛凛しく大勳位副章を御佩用、宇佐美武官長を隨へさせられて表御座所に出御閑院參謀總長宮殿下にも御待立、板垣陸相侍立申上げ東久邇中將宮殿下には午後三時天皇陛下の御前に御參進天皇陸下には立御の御儘御懇ろに拜謁を賜ひ中將宮殿下には武漢攻略の軍狀に關し恭恭しく御任務を奏上せられた陛下には殊の外御滿悅あらせられ畏くも御嘉賞の優渥なる勅語を賜ひ御慰勞遊ばされた畏き邊りでは中將宮殿下に對し勞を犒らはせられて御紋付銀花瓶一對並に金一封を下賜あらせられた

    社說 新規增稅と稅制整理 考慮すべき點 社說


    明年度臨時軍事費豫算の財源としての新規增稅に就き、池田藏相は之れを斷行することに政治的裁斷を下したが、增稅額は大體二億圓程度とみられ、臨時利得稅の增徵及び物品稅の擴大を主とするものであると傳へられてゐる。增稅の對象としては右述の外、消費稅の增徵、遊興稅の國稅移管、新稅として住宅新築稅、料理稅等である。
    この新規增稅と共に池田藏相は稅制整理に就ても政府の意向を表明し、昭和十五年度より實施する方針を明らかにしたことは既報□通りである。
    新規增稅と共に中央地方を通ずる根本的稅制整理を斷行せねばならぬことは過日本欄に於て主張した通り、實に刻下の急務であらねばならぬ。

    池田藏相が貴眾兩院の各代表者に對して試みた豫算內示會に於ける增稅の理由に依ると、一方に於て事變に依つて好影響を續ける產業の負擔を增加すると共に、他方に於ては不急消費の抑制に資せんとするにある。この趣旨と範圍であるならば、產業を壓迫する恐れもなければ、又國民生活を損ふ危險もなからうと思ふ。
    之れに依る增收は軍事費に繰込むのであるが、その趣旨が前述の如きものであるから、この增稅に依つて戰費の幾分でも賄ふためであるよりか、謂ゆる社會政策のため或は物價騰貴の抑制を主眼とするものとみるのが妥當であらう。が果して物慣引下に有效であるや否や、又所得稅の第一、第三種をそのまま放置して負擔の公正を期することが出來るかに就ては尚考慮を要する餘地がある。

    增稅の種目と金額に就ては未だ公表がないからその詳細は解らないが、傳へられるが如き享樂的消費に對して負擔を加重することは誰れも異論のあるべき筈がない。卽ち遊興稅の國稅移管、一萬圓以上の住宅新築稅、一定額以上の料理稅等の新稅創設は至極結構と云ふべく、殊に一萬圓以上の住宅稅なら一般の家賃に響くこともなく、又宴會費が高くなる等と苦情を云ふ者もあるまい。
    併し物品稅の擴大、消費稅の增徵が果して政府希望の物價騰貴の抑制或は物價の引下になるかどうか。增稅案の內容を拜見しなければ今これを豫斷することは出來ない。が少くとも政府の言葉をそのまま鵜吞することは危險であると思ふのである。

    現在我が租稅は基本稅法の外に臨時稅法が二本あり合せて三本建となつてをる。その間甚だ錯綜複雜を極めてゐるのである之れを整理し、現行稅制の本質に檢討を加へ、國民負擔の不均衡が租稅體系中に現はれてゐる點を是正することは、現在の跛行的情勢を矯正する上からも甚だ肝要であることは周知の通りである。又この懸案である中央地方を通ずる稅制一般の改革を斷行せずしては事變下の長期建設に伴ふ財政經濟改革に適應せしむることは出來ないのである
    政府がこの稅制整理を決意したことは當然のことであるが、しかし之れを徐徐に實現せられんことを望むものである。昭和十五年度に之を實現せられるとすれば、決意だけの表明で事態を長引かすことなく、來るべき第七十四議會に於てその片鱗か或はその全貌を國民に示すべきではあるまいか。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(五)/陳逢源 海外遊記

    時局と北支(上)
    昨年七月盧溝橋の銃聲を契機として引起された日支事變は幸に宋哲元の善處によって、北京をして兵亂の巷に化せしめなかった事は、北京に取っては何よりの幸福である。なる程一部の支那人では北京は舊王朝の封建權力を以て支那大眾に對する搾取によって築き上げられた都であるから、それを打ち壞しても別に心殘りはないといってゐるが、かゝる考へ方は過去の文化及び傳統に基いて始めて新らしき文化を產み出す母胎となる事を無視した暴論である。殊に私は支那のどこの都よりも北京だけは是非とも之を保存したいと思ってゐるし、又北京だけを見物すれば支那文化とは何んなものであるかといふ大體の概念も摑み得ると信ずるからである。
    併し北京城內の和やかな雰圍氣のみを見て北支は既に安定したとか 又は建設の緒に就いたと早合點したならばそれは非常なる認識不足である。臨時政府が成立して既に一箇年有餘を過ぎたが、臨時政府の實力の及ぼしてゐる範圍は尚北京城內より一歩も出でないと評せられてゐる位である。それがために王克敏を始め現在の老人內閣を改造してもっと生氣のある人物を入れなければならない放送もあって、北京は流石北支工作の中心地だけに色々なデマも飛ばされてゐた。
    私の北京滞在中は丁度廣東に引き續いて漢口陷落の快報に接したと共に、臨時政府では景山の上で盛んに花火を打ち放したり、或は花電車等を繰り出して北京市民としての祝意を十二分に表はしたが、私はそれだけでは何んだか物足りなさを感じたのである。即ち我が軍事行動のみは一歩々々と大地を刻しながら、北京新政府の政治的迫力と經濟的建設は頗る立ち遲れてゐるからである、紐育タイムスは我が軍事行動の果敢なる進出にも拘らず、其の占領區域內に於ける經濟建設は少しも進捗してゐないと批判したが、其の痛烈なる筆致に反撥を感ずる前に北支に於ける現實を見てつひに之を肯定するを得なかった。
    殊に私は北京で長城線に沿ふてゐる親日地帶たる冀東地區二十二縣の天地が散々第八路軍に蹂躪せられつゝある事を聞いて唯啞然といふ外はない、其の後我が軍の肅清によって冀東は再び往日の狀態に復する事も近くにある情勢であるが、併し私の憂ふる所は新政府が軍事行動に當然伴ふべき政治的、經濟的建設の缺如してゐる事だ。
    第八路軍は北支を晉察冀區、晉東地區、晉東北區の三つの遊撃戰區に區別し、彼等は日本軍が來れば逃げ、或は震と化し、去れば再び戻って來て我が兵站線を脅かす執拗なる遊撃站を展開してゐる。最近我が軍は第八路軍の根據地たる山西省の五臺山を撃破したと報じたから北支の天地も漸次明朗化するであらうが、其の善後處置にしてに臨時政府の奮起と努力を望まざるを得ない。
    現地へ行って特に感じた事は北支でなく占領した都市の間を聯結してゐる鐵道と主要道路から二三哩も奧地へ入れば治安が殆ど維持されてゐない事だ。北京も西山の背後は尚不安狀態に曝されてゐるし南口の近くにある、明十三陵の見學をも斷念せざるを得なかった事は全く意料外であった。共產黨の周恩来が曾て豪語してゐた如く北支では我方の勢力が尚六○%を保ってゐる事は單なる一種の宣傳であるとしても、北支に限らず支那各地に於ける治安は結局支那人をして自ら當らしめる方法を以って徹底さす以外にないと特に痛感せざるを得ない。
    私は北京及び天津に於て折角臨時政府からXX道尹及XX縣長の辭令を貰ってゐながら尚赴任する事の出來ない幾人かの政客に接して一層時局の容易ならざる事を再認識したのである。(寫真は北海公園內にある華麗なる九龍壁)

    滿鮮視察記(三) 海外遊記

    朝鮮神宮は南山の中腹に祀られ、官幣大社で全鮮の總鎮守として神々しく、裏參道を通ると、漢陽公園となつて、此の域內にも天滿宮、八幡宮乃木神社が奉祀されてをり、市民の
    參拜者が絕えません。京城から朝鮮西海岸に沿うて、新義州か滿洲國に入るのと北鮮を通つて、日本海沿岸に沿うて北上南陽から滿洲國の圖們に入るのと二つの陸路がある譯ですが私は後の方の道を取つて北鮮を通過しました。北鮮に入りますと、あちらこちらに、高い煙突や大きな工場が、目につきます。
    この地方は鑛物資源に惠まれ、勞力の廉いことによつて近年頗る發達して此の地方を中心として、大工場がつぎくに出來工產額も年に六億一千萬圓に達して居ります。朝鮮の鑛產は內地に出ない特殊鑛物のあることによつて
    實に惠まれ金の產額だけでも五千百九十萬圓から尚ふえてゐます。平壤附近に無限に產する無煙炭は帝國海軍の重要なる燃料で我が國防上重要な役割を有してゐます。滿洲國との境に近い處に茂山といふ鐵山があります。こゝから長白山脈に沿うて、滿洲國の通化に至るまで、數十里に亘つて無盡藏といふやうな鐵鑛が橫はつてゐるといふ事であります。誠に心強い話であります。北鮮のずつと北に清津、羅津、雄基といふ三つの港があります。日本海を隔てて內地との航路が次第に
    發達するにつれ餘程賑はつて居るやうであります。此の方面も將來滿洲國の發展につれて目覺しい發展を見ることゝ思ひます。いよく南陽から國境を越えて滿洲國の圖們に着きます(續く)

    けふ第五回の御誕辰 皇太子殿下いよいよ 御健かに渡らせらる 頭條新聞

    【東京二十二日發同盟】皇太子繼宮明仁親王殿下には二十三日御めでたく第五回の御誕辰を迎へさせられた殿下には御心身ともに愈よ御健かに渡らせられると承はるがこの佳辰天皇皇后兩陛下には午前十時三十分湯淺內府外側近に拜謁仰付られ御恐悅を受けさせられるまた赤坂東京假御所では午前十一時廣幡大夫外側近が殿下に御慶びを申上る筈であるが時局柄天皇皇后兩陛下の畏き思召により御內祝宴等は御取止になつた趣きに拜し奉る宮內省御貸下の御寫真は去る五月五日着袴の御儀に際し謹寫申上げた御姿で殿下には昨今一層の御發育を示され御體重御身長とも一般の標準を凌がせられると承はる、御日常については廣幡大夫の謹話に述べられてゐるが御平常は三輪車の御遊び御內苑の御散策、木登りなど自然を御相手に一般家庭の兒童と變らせられぬ御鍛鍊を遊ばしてゐる、また御知育は殊に優れさせ給ふと承はる、なほ新年は御所にて御迎へになり一月十日頃葉山御用邸に行啓の御豫定と承はる、廣幡皇后宮大夫は二十二日左の如く謹話した東宮殿下には御成長も著しく二十三日は第五回の御誕辰を迎へさせられまして寔に御めでたいことと存じ上げます。殿下には日日規律正しき御生活を遊ばされ天候不良の外は御室外にて御活潑に御運動遊ばされます。また今春からは每週二回幼稚園兒を御相手に遊戱、手工、唱歌等御快活に遊ばされます。斯樣に御身體御智能御鍛鍊遊ばされる結果御心身ともに御發育遊ばされまして愈よ御優秀なる御姿を拜します事は誠に感激に堪へない次第で御座います、また每週日曜日には御參內遊ばされ兩陛下の御膝下に御團樂御樂しい一日を御過し遊ばされます、茲にこの佳辰に際し殿下の御日常の一斑を御傳へ申し皇室の御繁榮を祝し奉りたいと存じます。

    社說 戰時下第七十四議會の陣容 社說


    戰時下第二回目の第七十四議會も愈愈迫つた。今次議會の特色は內外に亘る長期建設問題を中心として事變の目的遂行に要する純軍事費□並行して大陸經營に要する豫算並に長期建設に對應する國內戰時體制の强化を目的とする一般豫算が中心となり更に內政革新部門として議會制度審議會で審議中の貴族院制度の各改正案、末次內相の手許に於て整備中の所謂國民再組織問題等であらう。從つて今期議會では專ら建設を目標とする論議が展開されるものと見られる政府は既に卅六億九千餘萬圓に上る明年度一般會計豫算案を決定し來春早早には更に五十億圓に達する臨時軍事費豫算を決定する運びとなり我國有史以來の建設的使命に則し議會を通じてこれを國民大眾に徹底せしむるの態度を採るべく併して近衞首相を始め軍部兩大臣大藏、外務兩相等の施政演說によつて堂堂政府の政策を闡明するであらう事が豫想される。

    政黨各派に於いては議會へ臨む陣容を備へつつあるが民政黨では大陸國策を中軸とする革新政策に基き特に友黨政友會と緊密なる連繋の下に豫算案を初め重要法案の審議に當り以つて政黨の重責を竭さねばならぬと云ふ原則を立て絕對必要とする軍事豫算に對しては彼是謂ふ餘地なしとし一般豫算並に重要法案中には相當問題とすべき點が多いとなし其の主なるものとして增稅案の內容、昭和十五年度に實施さるべき稅制の根本的整理方針、長期建設に對處すべき將來の財政上の見透し、選擧制度改正等を擧げてゐる、一方政友會においては今回の議會は東西再建の重大時機であるから黨はさきに決定した東亞安定國策を基礎として政府を鞭撻支援せねばならぬ。政府に過誤なからしむるため政民兩黨の力をもつて議會の力を東亞再建の一點に集中せねばならぬ。とし對支國策に關しては政府の不退轉の態度を闡明せしめること。對英米ソを始め世界に對し帝國の東亞再建國策を闡明すること。國民再編成問題、選擧法改正問題等に重きをおき議會に臨むものと見られてゐる。

    一方社會民眾黨においては政府、議會一體となり國難を突破せねばならぬと同時に議會をして真に國策審議の殿堂たらしめ建設的言論を以つて國民に向ふところを示し國家百年の大計を定める必要ありとして總花式質問戰を排し各派代表制をとること、地方的利害に關する質問應答を自制すること。政府は議員の質問に對し率直明快に應答すること、等を申合せてゐる。以上各政黨の戰時下議會に臨む態度は勿論吾人の共感するところであるが要は實行如何にある。國民の議會を通じ事變の內容、見透しについて知らんとしてゐる希望は實に深いものがある。政府も議員も真に議會の使命を果し國民に對し其の向ふところを確然と示す事が今議會の第一義的使命である。吾人の望むところは議會は戰時下の故を以つて徒らに政府に迎合するところなく戰時下なるが故に議會は飽まで政府を鞭撻し豫算並に重要法案に對し十二分の檢討を行ふべき事である。

    滿鮮視察記(四) 海外遊記

    移民地
    滿洲事變のあつた翌年即ち昭和七年に初めて佳林斯(ちやむす)の南方四十粁の永豐鎮に北海道や東北地方の在鄉軍人の人を五百人第一次の移民として送り
    つゞいて昭和八年に其の南三十二粁にある即ち今私共が着きました千振鄉に同じやうに五百人を送つたのです。此の一次・二次の移民は、日本人が移民して成功するかどうかと言ふことを試驗的にやつて見たといつてもよいのであります。ところが此の時に行つた人々は匪賊の襲撃に遭ひまして、それを防いだり追拂つたりするのに一年以上もかゝりました。此の間には三十四五人も
    戰死者を出しまた中には前途を心配して引揚げて歸るものも可成り多くありましたが大多數の人は頑張つて、もう今日では立派な村を作つて、一次の彌榮村では人口も千百六十何人、二次の千振郷でも、千人を突破すると言ふ風に發展を遂げるやうになりました。そこで北滿の移民はきつと成功すると言ふ事になり、
    昭和十二年に廣田內閣のとき我が重要な國策として決定され、色々な保護や特典を與へて移民を獎勵するやうになつたのであります。
    私達は千振鄉の靜岡村に泊り 夜遲くまで其の頃の苦心話や、其の後一年と基礎が整つて、希望に輝く建設談などを聞きました。匪賊も今では別段心配なく、
    大陸性の氣候も案外樂で夏などは却つて內地の蒸し暑い苦しさよりは、凌ぎよいと話して居りました。作物も殆んご內地に出來るものは作れるさうですから、今一息の辛抱で、樂園となるのもあまり遠くない樣に思はれました。村の人はみな一致團結して、朗らかな氣持で働いてゐました。私達は千振から林口に引返し虎林線を東に、密山に行きました。此の線は國防上からも大切なところで警察の許しがなければ行けないのです。此の線一帶に入りこんでゐるのは第四次.第五次.第六次の移民團でありまして、第一次や第二次に比べて大變に良い地帶で移民地としては、よすぎる位だと云ふことです。 密山から、また引返して、林口の南の龍爪移民團に行きなつかしい
    岡山村に泊りましたこゝでも力強い元氣に滿ちて活動してゐられる有樣を見まして喜びと亦感謝の心で胸が一ぱいでした。滿洲國では、日本移民は成功するか知らんといふ心配は全く彼の地の事情を知らぬ人の取り越し苦勞です。現地の有樣を見た人は口を揃へて大丈夫だ、實に有望だ。といふことに決して躊躇しませぬ。

    日、滿兩國の信念を 率直、真摯に表現! 近衛首相の聲明張總理は語る 世界の義道革命の警鍾 頭條新聞

    【新京廿二日發同盟】近衛首相の東亞の新秩序建設方針聲明に觀し滿洲國張國務總理は大要左の如く語つた
    近衛首相の聲明は真に日、滿兩國の信念とする所を率直に真摯に表現したるもので滿洲國も完全なる同意と無限の敬意を表す殊に尊き犠牲者の血を以て戰ひ捷ちたる聖戰の後に尚その相手方に對して何等求むる所なく却つて無限の同情と理解を表明しその回復と健全なる發達のために治外法權及び租界の處置の點まで言及せるとは誠にこれこそ東方道義の宛らの表現□ある利害のみによつて終始する今日の世界外交界の現狀にとつて誠に容谷跫音を聞くの感がある支那四億の民もこの率直にして真實味溢れる聲明を見て既に日本と事を共にせる者は益益その志を固くしつつ夢迷の闇に彷徨せる者も惡夢より目覺めずには措かれないであらうこれ實に東方道義に基く新秩序を世界に聲明する大文字であつて却つて又來るべき世界の道義革命の警鐘と云ふべきものである。

    社說 日支國交調整の重大聲明 支那民眾に大なる感銘を與へん 社說


    豫ねて發表延期中の日支國交調整に關する我が根本方針は一昨日二十二日首相、外相、陸相海相の四相協議の結果、同日午後九時半近衞首相談の形式を以て發表された。これは先月三十日宮中に於て開かれた新支那との國交調整方針審議の御前會議に於て決定せられた廟議をその後政府の都合や近衞首相の病氣の為めに發表の期日が延び延びになつてゐたものを三週間後の一昨日に發表された譯である、この聲明は前述の如く畏くも聖上陸下御親裁の下に□參謀總長宮を始め奉り軍令部總長(代理軍令部次長)、內閣總理大臣、陸軍、海軍、外務、大藏各大臣樞密院議長、參謀次長出席し、慎重審議の上原案通りに可決せられたものであつて、政府がその重大性に鑑みて特に慎重を期したことは勿論のこと、中外人士がこの劃期的な聲明に對して如何に刮目してゐるかは更に贅言を要しないところである。

    同聲明を見るに、先づ冒頭に抗日國民政府の徹底的武力掃蕩を期する我が終始一貫せる既定方針を重ねて言明し、支那に於ける同憂具眼の士と相携へて東亞新秩序の建設に向つて邁進せんとする態度を明かにしたのである。而してその具體的要件を要約すれば卽ち抗日行動の一掃、滿洲國の承認、日滿支防共協定の締結、同協定繼續期間中特定地點に日本軍の防共駐屯の承認及び內蒙地方を特殊防共地域とする要求、日支平等の原則に立つて帝國臣民に支那內地に於ける居住營業の自由の容認、北支並に內蒙地域の資源開發利用上日本に對し積極的に便宜の提供であるが、特に善意の第三國の利益を制限せんが如き經濟的獨占を行はんとする意志のなきこと、且つ日本が敢へて大軍を動かせる真意は決して支那の領土や區區たる戰費の賠償を求めるに非ざることを高調したのが重要の眼目である。

    右聲明の大綱はその根本精神に於ては帝國の事變處理に關する從來の聲明を重ねて申述したに過ぎないが、その內容は從來のそれに比して著しく具體化してゐることは注目に値ひするものである。斯る率直なる表現は英米を始め諸外國の誤解を一掃するに足るは勿論のこと、支那の識者をして帝國の本當の腹を知らしめ、反省自新の機會を與へ、進んで帝國と提携して東亞新秩序の建設に協力する路を開けてやつた點に重大なる意義を有するものである。過去一箇年有餘の月日は所謂兵馬倥傯の最中であつて、人心兎角興奮の坩堝に陷り易く、是非得失の判斷を過るものであるが、今や戰局は第四段階に到達し、抗日國民政府は完全に一地方政權に顛落したから、支那民眾も漸く惡夢から目覺め、帝國の聖戰の真意を理解する餘裕が出來たものと見るべき今日に於てなされた帝國のこの聲明は真に機宜を得たものであり、必らずや支那民眾に非常なる銘感を與へるものに相違なく、その效果は期して待つべきものがあると信じて疑はないものである。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(六)/陳逢源 海外遊記

    時局と北支(中)
    時局下の北支には日に日に日本色が濃厚となりつゝある事は爭はれない。九月未日現在に於ける軍報道部の發表によれば北支在住の邦人は
    北京二○、○七一△天津三三、三一二△青島一九 五五九△張家口九、二八九△石家莊六、四五二△太原三、九六九△濟南七、七三七△徐州一七四六其の他合せて
    三十一萬一千四百五十六人の多きに達してゐる。北京では事變前僅か二千人しかなかったが、今や十倍以上に激增し、紫禁城の東にある王府大街には母國人の商店が立ち並んでゐる許りでなく、其の附近には旅館、カフェー、飲食店等も雨後の筍の如く增え出して來た。北京の歡樂街たる八大胡同の人肉の市にも母國人及び朝鮮人の料理屋がそこに割込んでデカデカした日本色彩を以てにぎはしてゐる。これ等は北京本來の情調を傷つけるものだと、北京愛好の母國人でさへ眉をひそめてゐるが、事變を契機とする母國人の大陸進出は既に避くべからざる勢ひであって、旅館、料理店、飲食店が最も多く、官公吏及び會社員が之に次いである。
    併し中北支の新政權に對しては顧問とか、指導官以外に原則として日系の官吏を入れない事になってゐる。唯、蒙疆政權だけは特殊事情がある日為系の官吏も少なくないが、大體に於て政治方面は專ら支那人をして當らしめてゐる模樣である。それでも支那人の失脚官僚及び失踋政客が數多く北京、天津に押しかけて來たが、現在の政治機構では到底それ等を充分に收容するだけのポストがない。王克敏氏を主宰する新民學院は元々新官吏を養成するために一箇年の修業年限を以て折角新民主義を吹き込んで來たが、若し一つのポストが空いたらそれを繞って相常深刻な爭奪戰が展開するに反し蔣介石に殉じて悲痛な決心で奧地へ引き込んだ一大群の抗日教授及び抗日學生の足掻きもあって、兩者の對照が其の儘支那社會の複雜性を現してゐる。
    其間臺灣青年も雄々しく政治方面へ進出して既に臨時、維新兩政府の官吏又は大學教授等として活躍してゐる人も散見する中には所謂要人といはれる程の地位をから得た人もある。若し教養と頭腦かういへば臺灣青年の優秀分子が支那人に比して優るとも決して劣らざる素質と實力を有する事は、私の今回の旅行によってかゝる自信が更に強められたのである。從って臺灣青年としては平素充分に實力を養成し更に北京語及び漢文の素養を兼備すれば今後支那大陸の各方面に於て活動する天地が開かれつゝあるのである。唯支那へ行って一躍大官となるか、又は一攫千金の夢を見ようとするならば、却って日支親善の障害とならぬとも限らない。少なくとも支那に於て活動せんとするには東亞民族の一分子として真實の日支親善を圖りつつ新東亞建設に努力せんとする自覺と理想がなければならない。
    更に考ふべき事は現在支那に於て最も缺乏してゐる人材はいふもなく技術方面のそれである。從って臺灣青年としてもなるべく此の方面の學科と經驗を積めば、新東亞の建設に盡すべき廣大な分野があるに違ひない現に臺灣に於けるインテリ青年層が多く失業の狀態に陥ってゐるから、今後支那大陸開發に要する人的要素としてそれに捌口を向く事は總督府として大に考慮していゝ問題だと信する。其の一方法としては臺灣に於て簡單な醫學校とか、又は工業學校をして主として大陸進出の人材を養成すべく努力する事が大に必要である。就中支那では科學的醫療機關が最も缺乏してゐるから簡易醫學校の設立は南支開發を一つの使命とする總督府に取っては直ちに實行しても決して早計でない緊急問題であらうと思はれる。私は此點に關して特に總督府の一考を煩はさんとするものである。【寫真は萬壽山排雲門より佛香閣を望む】

    滿鮮視察記(五)/妹尾清一郎 海外遊記

    青少年義勇軍
    私達滿鮮視察團の一行が鐵驪の滿蒙開拓青少年義勇軍訓練所に到着したのは、十月四日の午後で晩秋のしかも雨氣を含んだ雲がはるかの
    彼方まで覆うてゐました。出發當時は汽車は訓練所から六十年ロメートルもある慶城までしか通じて居ないので、慶城からはトラツクで行かねばならぬと覺悟してゐましたが、ハルピンで聞合せると、鐵驪まで開通したといふことで、大變樂につくことが出來ました。此の邊は北滿の一望千里といふ荒漠とした大曠野の眺めを思ふ存分味ふことの出來る地點であります。從つて驛は此のはてしもない野原の只中に、小さなバラツク建が一つあるだけで、線路の兩側に盛り上げてある土の上に飛び降りました。そこには、はや二臺のトラツクが待ちうけてゐました、一行はこれに分乘して三キロメートル餘る凸凹のはげしい
    泥土の路を冷たい夕風をきつて、訓練所に到着しました。義勇軍の生徒たちは、今ㄋしも作業を終つて本部に歸つてゐるらしく、私達を見ると、直立不動の姿勢で舉手の禮をして迎へて吳れます。其の凜とした態度と燃え上るやうな心構へに心強さと、亦感謝の念で思はず胸をつくやうです。岡山と鳥取の兩縣出身者は殆んど第二大隊の第六中隊 に居ますのでトラツクは二大隊本部の前で、とまりました。本部に揭げられた日章旗はもう夕闇が迫つて、冷氣が身にせまつて來ます。トラツクから降りますと闇の間から先生といふ力強い聲を掛けて生徒たちがかひんぐしく荷物を持つて案內をして吳れます。生徒の大部分はまだ先遣隊が入隊當時に作りました天地乾限建と申しまして高梁のからを兩方から、もたせ合せにした想像も及ばぬ全く原始的な、
    只雨露をしのぐに足る粗末なものでありますが、私達の案內されたのは本隊が入隊しましてから作られた本建築の一等屋舍であります。まづ何よりの御馳走だと言ふのでオンドルを焚いて吳れますが、生木である上にオンドルが塗りたてですから中々燃えません。石油をかけていぶしながら、やつと燃えるといふ有樣です。
    (つづく)

    陸海軍に感謝決議案 戰死者に敬弔決議案 廿七日本會議(眾議院)に上程 頭條新聞

    【東京二十四日發同盟】眾議院では二十七日の本會議に於て陸海軍に對する感謝決議案並に戰死者に對する敬弔決議案を上程可決することとなつたが兩決議案文左の如し
    陸海軍に對する感謝決議案
    支那事變發生してより茲に一年有半我陸海軍將兵諸士は備さに辛苦を嘗め萬難を排し北伐南征空前の戰果を收め大いに國威を中外に發揚す之御稜威の下忠勇なる諸士の勇戰力闘に依るものにしてその赫赫たる武勳は全國民の等しく感激措かざる所なり今や東亞の新態勢漸く具現せむとす、諸士今後の任務は倍倍重くその勞苦愈愈大なるべし、眾議院は院議を以て感謝の至誠を披瀝し合せて將兵諸士の勇健を祈る
    戰死者に對する敬弔決議案
    眾議院は今次支那事變に於て一死君國に殉じたる忠勇なる幾多將士の英靈に對し深厚なる敬弔の意を表す。

    社說 英米の援蔣借款 社說


    外電の報ずるところによればアメリカは今回支那に對し、二千五百萬ドルの借款供與を許容したと傳へられてゐる。しかしてその形式は、輸出入銀行からニユヨークのユニヴアサール・トレーヂデイング・コーポレーシヨンに對しクレヂツトを與へその目的は支那へ向け農產物を輸出し、同時に支那より桐油を輸入する資金に充てるためだと云つてゐる。ところが不可解なことには、ユニヴアーサル・トレーヂデイング・コーポレーシヨン會社なるものは、正體不明の僞裝會社と云はれ、しかもその借款の目的たるや、純然たる經濟的意圖でなく、その實支那に輸出されるものはトラツク、ガソリンが大部分を占めてゐることである。卽ち同借款は貿易促進に名を籍りて、今や落日に近き蔣政權の軍事目的を援助する英支借款と同斷の對日外交措置であることは否み得ない。

    事變勃發以來、列國が或は政治的に或は經濟的に形こそ異にすれ、援蔣政策を取つて來たことは周知の事實である。その間にあつて獨り米國が常に事變の禍中に卷き込まれまいと努力し、殊に對支武器輸出については、昨年九月大統領令を以つて禁止したが如き□日支何れにも偏重せざる中立主義を堅持し當時陰に陽に援蔣政策を取り來たつた諸國によき範を示したものとして敬意を表したところである。しかるに米國今次の借款許容は、その冷靜なる判斷が破られ、既にこの中立的立場から一步踏み越えんとするものと見なければならぬ。紐育ポスト紙の論ずるが如く、支那事變不介入方針に反したものと云ふべく、從來中立主義を嚴守して來た米國のため甚だ遺憾であると云はなければならぬ。米國のこの種の如き措置は、轉換期の東亞の事態解決に寄與するものとは思惟されず、米國のために取らざるところである。

    更に注目すべきは、米支借款と期を同じうして英支間に於ても鐵道敷設及び鐵道材料、トラツク輸出を目的とする一千萬ポンドの大借款が略成立してゐると傳へられてゐることである。英米それぞれか、若くは默契出來たものかは穿鑿する必要はないが、斯る事實によつて吾吾は米國の極東に對する態度を表明したものと見てよいのである。英國の援蔣政策は、事變以來既定の方針であり今更云ふ必要もないが、飽くまで英國との共同行動を避けんとして來た米國が斯る態度に出ることは關心せざるを得ない。米國が斯る態度に出た理由は、揚子江航行を中心とする在支權益問題についての誤解から來たものであることは云ふまでもない。しかし東亞の歷史的轉換の必然性を新事態を米國が公正に認識せば、解決出來ることと思はれる。盡すべきを盡さずして敗殘國府に借款を許容するのみならず、對日經濟壓迫を示唆するが如きは、日米兩國民の感情を徒らに刺戟するばかりである。米國にして善處するところなくば、帝國としても之に對處する措置に出でざるを得ないであらう。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(七)/陳逢源 海外遊記

    時間と北支(下)
    現代の支那は大體に於て舊き支那と新しき支那の二つに分ける事が出來る。舊き支那とは軍閥や政客等の如く利益や陰謀等によって動かされる人々であるとすれば、新しき支那は若い血氣を逸って支那の更生を圖らんとする人々である。從來の支那浪人の對象としたグループは主として前者であり、從って支那の弱點、陋習を最もハッキリと掴んでゐるに反し、新しき支那に對する理解と同情がとかく缺けてゐるようである。これがため隣國でありながらどれ程支那に對する認識を誤ったかは過去に於けるいくたの事例によって之を知る事が出來る。
    それ故今回の事變に對して抗日主義者に屬せざる新しき人々の意見等を聞かんとする事は決して私一人だけの希望ではない田川大吉郎氏が曾て上海に於て基督教青年會の手蔓を以てさういった人々の考へを聞きたかったが、殆ど其の目的に達するを得なかったさうだ。私は北京に於て二三の新人の感想を聞いたが、概して我が國に對する正當な理解に缺けてゐる。勿論彼等は新支那を代表する者だとはいへないかも知れないが、茲に其の一端だけを擧げて見よう。比較的に冷靜な彼等でさへ、今回の事變は蔣政權の歐美依存主義及び抗日思想によって激成された巳を得ざる手段である事實に對して強ひて目を蔽ふてゐる其結果土肥原中將のいってゐる「日本の大陸進出は西洋諸國の如き掠奪と征服の目的でなく、日本が搾取なき新支那の建設を指導して東洋の新秩序と新政治體制を決定して世界の平和と東洋文化に貢献せんとする事」に對して未だ充分に理解の域に達してゐないようだ。
    私はかくして支那の人々に接した感想として彼等の理解と共感を得る迄には今後相當多大な努力を要すると共に、東亞協同體とか東亞協同經濟とはかくの如きものだといふ實例を以て強く彼等を導くより外はない。尚帝國の大陸經營は有史以來如何なる民族も持たなかった高遠な理想に伴ふ大事業を遂行しようとしてゐるから我が國民は其の心構へとして從來の島國性から脫却してもっと包容力があり、もっと寛大にして餘裕ある態度を以て支那國民に臨むべく、先づ新しい資格を具へなければならない。相手は何しろ世界の四分の一を占めてゐる大民族であり、或る程度まではナショナリズムの洗禮を受けて來た事であるから、並々ならぬ困難が橫はってゐるものと覺悟しなければならない。若し此の事態を生まやさしく考へたならばそれこそ大變な錯覺である。
    私はよく聞かされた事は中支の事情を見れば全く悲觀に值ひするが、北支ならばうまくやって行けるといってゐるが、中北支が互に入り込んでゐる事情から若し中支がうまく行かなければ北支だけでうまく行く筈がない。從って原則としては政治、經濟、文化の諸工作を一元化すると共に新たなる迫力を以て一般大眾を始めとして新らしき那の人々をも網羅して此の大事業をやり遂げさせるより外はない。最近國民黨の人々と雖も若し新支那の建設に參加せんとするならば喜んで握手しようといふ大襟度を示した事は新らしき支那の人々に對しても必ずや多大な好感を以て迎へられるに違ひない。我が國民としては事業が餘りにも偉大であるから、單に堅忍不抜だけでなく之に處する方法と態度をも慎重に考慮しなければならない。(寫真は北海團城上の白玉佛)

    心聲 漢詩

    喜爵五靜軒鑒堂諸先生來訪賦呈/羗園 陳寄生、次韻奉酬/東港 黃靜軒、同吳陳兩前輩訪寄生詞兄於羗園舊第/靜軒、次韻奉酬/寄生、含笑花/張善、贈秋圃芸兄復續絃/張善、書懷/張善、偶感/張善

    山西省西部に蠢動の 敗殘匪掃蕩戰展開 敵抵抗線を完全粉碎 頭條新聞

    【臨汾二十五日發同盟】山西省西部に蠢動する敗殘匪掃蕩を目指し晉西肅清戰は寒風擘く山野に展開されその一翼を承はる三村、十河、池田、成田の各部隊は二十三日夜早くも行動を開始し汾河北岸の孫曲村臨汾北方八粁)に進出、先づ三村部隊に依つて戰闘の火蓋は切られた、即ち二十四日拂曉同部隊□積雪暗夜の高原に行動を起して一氣に西進白雪を蹴つて敵六十一軍の土門村防禦線たる古鎮(孫曲村西方四粁)北側及び西南側高地よりその南方毛淇村(孫曲村西南方五粁)に亘る約五粁の陣地に肉薄猛擊を開始した、暗夜に轟く成田池田兩部隊の掩護砲撃は敵陣地の頭上に間斷く炸裂し果敢な三村部隊の決死的突擊は抵抗線を完全に粉碎、午前八時五十分古鎮及び毛淇村を完全に占領、引續き敗敵を追擊前進、又孫曲村より北進した十河部隊も二十四日午後四時陣眾庄(孫曲村北方二粁)及び大間村の敵陣地を攻撃、これを占領した。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(八)/陳逢源 海外遊記

    周作人を語る
    事變後北京に居ってゐる有名な學者は極めて少數であるが周作人位有名な者はない、周さんは今こそ北京大學の教授をやめてはゐるが、他の抗日教授と共に奧地へ行かずして尚日本人の奧樣と同棲して北京に踏み止まってゐる事だけでも決して抗日主義者でない事は否めない。周さんは中國隨一の小說家たりし魯迅の弟であり、今から二十年前に當時の北大教授胡適、陳獨秀らの同僚と相携って文學革命を起して現在の白話文を確立した事は既に支那文學史上に頗る大きな足跡を殘した。其後周さんは民國八年(一九一九)の所謂「五四運動」時代に人的文學とか、平民文學とか、又は民族文學を唱へて若い青年に多大な影響を與へた事は明かである。併し周さんの如き溫厚篤實な學者は固より熱烈な革命思想を叫ぶが如き強い性格の持主ではない。周さんは早くも彼の書齋即ち苦雨齋に立籠って苦い茶を啜りながら一種魅力のある平明冲淡な小品文を以て學生層の讀者を獲得したり、或は日本小說の飜譯を以て日本文化を紹介したりして來た。周さんは五十歲の年頭に次の如き舊詩を咏じた事を見ても、彼の心境は如何に幽閑其のものに立ち返ったかを知るのである。
    前世出家今在家。不將袍子換袈娑。街頭終日聽談鬼。窓下通年學畵蛇。老去無端玩骨董。閑來隨分種胡麻。旁人若問其中意。且到寒齋吃苦茶。
    私は北京滯在中に是非周さんに逢ひたいので、或る日彼の友人洪君の案內で北京の西北に當る新街口の附近の閑靜な自宅を訪問したが、快よく面會して頂いた。周さんの書齋は苦雨齋の名に値ひする程薄暗い部屋であり、多分庭に植えてゐる白楊等の蔭に蔽はれた所為であらうが、なかなか落着いたものだ。書棚には洋漢書とも少なくないが、日本書籍の頗る多い事が特に目立ってゐた。殊に文學書籍以外に茶道とか、能とか、さういった古典的な研究までも手を染めてゐるところを見れば、周さん程日本、就中日本文化に關する深い研究と理解が先づないといっていゝ。
    周さんの第一印象は夫子溫良恭謙讓の美德を兼ね具ってゐる事を其の儘顏に現はしてゐる。私との話は約一時間に亘ったが周さんは時局に關してなるべく意見を洩さない事に寧ろ其の人つとなりを知る事が出來るやうな氣がする。
    周さんからは「近頃北京では日本語に關する研究は盛んになったが、日本に關する研究が却ってなくなった。自分は現在燕京大學で一週二三時間の中國文學を講義するだけで、あとはギリシャの原語からギリシャ神話の飜譯をやってゐるに過ぎない。事變から以來殆ど書物を讀まない。日本評論社の室伏高信君からは何か書いて吳れと手紙で賴んで來たが、今尚戰爭中だから何も書けない」と斷ったといってゐた。
    私から周さんの隨筆集の日本譯が大分日本で讀まれてゐるといったが、其の代り支那では自分の著書の賣行は事變の影響でパッタリと止めたと苦笑をしてゐた。周さんの收入の大部分を占めてゐる版權の收入がなくなたため其の生活も決して樂なものではない。
    元來支那の如くいくたの王朝の盛衰興亡が繰返されてゐる國土には自ら一つの士道といふものが重んぜられてゐる。三千年前の伯夷と叔齊が其の臣子の周武王によって商の紂王を滅ぼしたといふので、直ちに首陽山に隱れて周の粟をも食はずして遂に餓死した事は古来から頗る稱賛せられて來たのである。
    明の臣たる錢牧齋が清に降ったといふので、清の沈德潜が文教の罪人として立派に文學的價値を有する錢の詩をワザと明清及び清詩選からオミットしたさうだ。然るに同じ明の臣たる詩人吳梅村が明の滅亡で一日野に隱れ、其の後天下の定まる時に清の祭酒といふ役人に就いても別にそれを惡くいはれないところに支那士道の特質がある。
    周さんに對しては上海租界內の新聞紙上に於て「周作人何不南下」と頻りに彼の北京退出を促がしてゐるが、彼もそれ笛には踊ってゐない。とにかく周さんの背後には數十萬の文學愛讀者を控へてゐるから、彼の一言一動は支那青年に相當大なる影響を及すであらう事は想像するに難くない。周さんが目下努力してゐるギリシャ神話の飜譯も、米國系大學が彼の生活費を補助する意味に於て賴んだものであると聞いてゐるが、若し事實だとすれば米國人のやり方も大に學ぶべき點がないではない日本文化隨一の理解者たる周さんに對して日本としては彼を氣持よく待遇する事に對支文化工作の上から見ても必要ではないかと思はれる。私の歸る前に周さんから自署の寫真を貰ってから溫かい握手で名殘惜しく別れた。(寫真は周作人)

    滿鮮視察記(六)/妹尾清一郎 海外遊記

    もう一行の者のまはりには、一ぱいに生徒が押し寄せて、丁度親の膝に子供が慕ひ寄るやうに、「先生おたつしやでしたか隨分大した處でせう。」「僕等は先生に會はれるといふので此の間から大騷で待つてゐました。」「僕等が來たとき慶城で雨に降り込められて三日もじつと待つてゐました。中にはハルピン迄引返した連中もあつたんです。そこから步いて來ましたが大變でした。」
    「いゝえまだ一日も休んだことはありません。屯墾病(故鄉が戀しくなる病氣)なんかにやかゝりませんよ。」「先生のんきでちつとも苦しいことなんかありません。」慰さめてやらうと思つて居た一行の者は、すばらしい元氣に負けさうです。次から次へと何をすることも忘れて、夢中で話を續けます。遠く故國を離れて、見聞した凡てが彼等にとつて驚異であつた。其の多くの印象が今こそ思ふ存分聞いて貰へるのだといふ希望が爆發したのでせう。實になごやかな場面が展開いたします。其のうちに一行の中に見知りのない生徒はランプを持つて來て照明の用意やまた炊事係の生徒は夕食のを準備して吳れる臨時に設けられた中央の食卓に用意が出來た。麥の入つた御飯に白菜さと
    じやが芋のくず煮の中に、鰹の罐詰らしい魚が入つてゐる。大方私達をもてなさうといふ厚志でせう、感謝しながら頂きました。食後中隊長を中心として、座談會が開かれました。生徒の共同生活は殆んど全部が中隊を單位として行はれるのであつて、中隊長と生徒との間は親子の間柄にも等しいものであります。其の間に漂ぶ愛と敬との情誼は座談の間にも十分に知ることが出來ます。生徒同志の間にも、戰地に於ける戰友と同樣に兄弟以上の親さだと言ふことです。此所は昨年の九月に先遣隊が來まして、本隊が渡滿して來るのを迎へる諸準備をし、先づ第一に假營舍を建て、或は
    井戶を掘り、道路を設けるといふやうな直ぐに必要な事柄をしたのであります。 本隊は本年の五月頃から順次に到着いたしまして、只今では約二千五百名であります。これが三大隊に分れまして一大隊が五箇の中隊に分れてゐます。此の合計十五箇中隊が本部を中心としまして一箇の集團部落をつくるやうに陣を布して居ります。岡山の第六中隊などは本部から四粁許り離れてゐるのであります。
    訓練所の面積は約三萬町步でありまして訓練生一人當り二町步位を標準として實習をさすことになつてゐます。只今生徒は建築班と農耕班の二部に分れまして活動をしてゐます。建築班では本年の十一月の初め頃までには
    本建築の營舍を完成しなければならないので、一生懸命でした農耕班も來年度は一つ自給自足が出來るやらに開拓の最中でした。生徒の日課としては、午前六時に起床し、朝會や食事が濟むと、直ぐ二班に分れて勤勞に從事するといふ譯で、學科とか教練とかいふ訓練科目はあるのですが、まだ要目などが十分に決定してゐませんし、それにたちまち營舍と開拓を急ぐのですから、まだ實施されてゐません。只今の處では訓練方針は勤勞即訓練といふ譯でありまして、不言行為を尊び心身を鍛鍊してゐる譯であります。勿論此の現地の訓練所の目的は、大陸建設の第一線に立つて日滿一體、五族協和の中心となり、骨を彼の地に埋めるといふ
    理想的な建設者を養成するのであつて、それが為には滿洲國の現地で自然に馴れるやうに陶冶することが大切であるからであります。訓練の期間は三年間といふことになつて居りまして先づ私達の視察しました鐵驪の訓練所のやうな大訓練所で一箇年訓練を受け、後の二箇年は其の外の小訓練所で訓練を受けることになつて居ます。一番心配なのは
    水が惡く衛生上の施設が十分でないから、健康を保つといふことであります。從つ て、病院を設けて患者の手當を十分に出來るやうに注意せられ、其他飲食物、氣候の變動等によつて病氣にかゝらぬ樣に注意が拂はれてゐます。其の為に案外病人も少なくて、今までに腳氣のためと、急性の赤痢で四五人の犠牲者が出たのみだといふことです。

    わが各部隊次次に 殘敵を擊破、猛前進 晉西一帶の大清掃戰 頭條新聞

    【臨汾二十六日發同盟】晉西大清掃戰は二十五日拂曉一齊に攻勢に轉じ同日正午頃早くも汾河右岸地區に沿ふ山麓一帶より敢然敵を掃蕩驅逐した、北方においては敵第六十九師を土門村陣地に對する我が三村部隊の正面攻撃とこれに呼應する□川部隊の敏速なる同陣地北側を迂回する敵退路遮斷の作戰は物の見事に成功して同日午前十一時敵は雪崩を打つて潰走した、我が軍は午後四時頃敗敵を追つて臥口村北側に進出した、之により續續中部の峪里村陣地攻撃の我が米川、清水兩部隊も同日正午頃完全に同地を占領し引續き前進中で臨汾北側における南北の山麓地帶は完全に我軍に依つて確保された一方北進中の山崎、中山、今、山根の諸部隊も既設陣地に據つて抵抗を試みる敵第七十二師の大部隊を撃破しつつ同日午前十時頃樊村鎮東西の線に進出、さらに北方目指して猛進中である。

    社說 燃料政策と干芋の統制 生產者の立場を考慮せよ! 社說


    燃料資源の獲得は戰時體制下に於ける我が重要國策の一つである石油資源の乏しい我が國としては代用燃料の獲得が目下の緊急事である。その對策として、無水酒精のガソリン混用を實施し、酒精の大增產計畫が立てられて居り、臺灣は天然資源が豐富であるを理由として昭和二十年迄には全國需要量の殆ど三分の□である八千萬石の供給を行ふ事となつて居る、かかる大量の無水酒精の生產に對しては甘蔗又は甘藷を原料に利用する事になり、兩種原料とも本島が最大生產地である。この見地よりして本島は母國に對し燃料國策を樹立する第一線に立つて居る全島民を擧げて燃料國策達成の為めに一時も早く製造原料である甘蔗と甘藷の增產に着手せねばならない時代である

    甘蔗の增產は各製糖會社と農民の協力に依つて早くも本年度から大增產計畫が實現し、本期產糖は二千二百萬擔に肉迫せんとして居り、甘藷の生產に對しても、各州下とも官民の努力に依つて增產せんとしつつある。更に主管官廳である專賣局では逸早く優良品種の育成を臺北帝大に依賴し着着として成功し數年ならずして大增產が實現するものと豫想されて居る、最近殖產局が酒精原料である干芋の島內に於ける販賣に統制を行はん との意向にあるのも燃料國策を樹立せんとの意圖であると想像されて居る、言ふ迄もなく無水酒精を製造し燃料國策を樹立せんとすれば、第一にその生產原料の確保に俟ねばならない、殊に市價の變動如何に依つて供給數量の多寡が決定される干芋原料に對しては自由生產及び自由販賣を何時迄も許す譯に行かれないであらう。

    卽ち無水洒精を今後五年間に八十萬石と言ふ大量の生產を行ふとすれば、その生產原料を豫め確保せねばならない、甘蔗の如きは各製糖會社が區域制度に依つて正確に生產されると共に販賣も統制されて居るから將來の生產計畫を正確に實施するに反し、何等の統制機構の確立して居らない干芋を放任する譯に行かないのである、督府が今回干芋の販賣統制に乘り出した事は適宜な對策である、現在の如く自由放任を續ければ市價の高い時は增產を持續する事が出來るが、他の農作物と競爭の立場にある甘藷の生產に對しては一定した生產統制が實施されなければ、安心して原料の確保を期待されない、督府がこの見地よりして干芋の生產並に移出の統制に乘出した事は遲蒔の感がないでもないが緊急實施を要すべき重要課題である、その具體案として干芋の島外搬出を從來の取扱商人より取上げて農會の事業となし、移出商人に對しては臺灣甘藷會社を擴大し、同業者を同會社に包含し移出を統制せんとの方針である。

    甘藷の生產と干芋の移出統制を行ふ事は酒精原料政策を確立する上から見て最も急務とする事であり何人と雖も異議がないが、特に本島に於ける生產者の立場より見れば、その統制に對し督府としては餘程慎重なる態度を以て生產者の立場を考慮し重大政策の實現に邁進せねばならない、由來販賣統制は單に一部資本家の利潤を增加し生產者の生活を脅す虞れがあるからその點を督府に於いて慎重考慮すべきである。南部地方の甘藷生產に依つて生活資源となして居るから農民の生活を脅す事がなく燃料國策が確立される樣に指導し運用すべきである。更に一時的計畫でなく遠大なる眼光を以て將來の國策を樹立すべきである事を要望するものである。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(九)/陳逢源 海外遊記

    京戲の溫床(上)
    支那人は特に芝居の好きな國民である事は前に述べたが、就中北京を中心として發達した所謂京戲が最も流行されてゐる。何しろ京戲は歌劇であって其の歌は北京が其の發祥地であるから、北京人の多くはかゝる歌に對して驚くべき鑑賞力を持ってゐる。試みに正陽門外の前門大街を通って見よ。そこの商店街から八釜しい程洩れ出す蓄音器の歌は大部分梅蘭芳、程硯秋、荀慧生、尚小雲の四大名旦を始め、馬連良、金少山等の歌であるし、それに對してあらゆる階級の通行者を問はず頗る熱心に耳を傾けてゐる事を發見するであらう。ラヂオのプログラムには若しかゝる歌を入れなければ人氣を呼ぶ事が出來ない狀態にある。
    更に每日の新聞を覗いて見れば必ず一頁か半頁を割いて劇評とか、名伶の動靜とか、筋書の說明とか、新俳優の紹介等のニュースを麗々しく滿載してゐる事を發見するであらう。いはゞ一般の讀者は要人の動きよりもより以上に興味を持ってゐるらしい。從って此のページがなければ直ちに新聞の賣行も影響する。其の外梨園畵刊とか、明光畵刊とか、さういった芝居に關する定期刊行物が頗る多くいづれも名伶の寫真を印刷して街頭で賣ってゐる有樣は北京でなければ見られない風景である。
    從って名伶に對する社會的地位が日本等よりもズット高い。彼等は昔ならば王公大臣等と交を結んだため、獵官者からはいろいろと賴まれた事がある。會て西大后の寵愛した名伶楊小樓が如何に豪勢だった事は今でも北京人の腦裏から去られてゐない。現在でも名伶との交遊によって相當地位の官吏にありついた話を私は北京で聞いたのである。世界的に盛名を馳せた梅蘭芳が米國に行った時、米國ではとにかく名譽ある博士號を贈った事は外交的意味に於てであらうがよく支那人の心理を摑んでゐるともいへる。
    私の滯京中は梅蘭芳が事變前から香港へ去って未だ歸らず、程硯秋が馬連良の後に上海へ行ったから、荀慧生、尚小雲、金少山、譚富英、李萬春等の名伶の演劇を飽く事を知らずして見廻ったものだ。これ等の名伶は一個所の戲院に出演せず、四大名旦を始め馬連良、李萬春等が各々一座を率ゐて一旗を擧げてゐるから、これ等の芝居を一巡するにはなかなか骨が折れた。
    殊に彼等は每晚出演せず二、三日一回か、又は一週間一回の割であるから、先づ十日位繼續して見廻らなければ其の目的に達する事が出來ない。
    北京人が如何に京戲に狂熱してゐる事かは小劇場を除くか十二の大劇場、即ち長安戲院、新々戲院、中和戲院、慶樂戲院等が每晚殆ど滿員を告げてゐる一事だけでも之を想像するに難くない。殊に少し名伶得意の藝□ならば大した人氣なのである私は最近梨木祐平氏の書いた北京の雰圍氣から左の一節を引用して私の說明に代へたいと思ふ
    秋の北京は油の乘り切った程硯秋の藝で代表されてゐる。梅蘭芳南に去って以來、彼の獨壇塲と謳はれた覇王別姫の虞美人に扮して敗將項羽との別離に哀調身にせまる旋律を舞臺一パイに漂はせながら、其の風に堪へぬ柳腰に劍を舞ふところ北京人士は譯もなく魅了し去られて、新々戲院の前の電車通りは自動車が身動きもならぬ程に氾濫してゐた嘗て滿、蒙。韃靼等の異城に武を競へる新興民族も一たび北京に入るや、□時か知らず北京の雰圍氣に同化されて長袖よく舞ひ、緩頰よく語るに至ったといふ事は史上に明かに殘されてゐると共に、北京人士も何時も自慢にする所であるが、斯くして北京は去來する風雲の險しさから脫れて政治的な變動には不□受性とも見える性格を培ひ育くんだのだ。然しそれにしても北京郊外一歩を出づれば、廣茫際涯なき農村地帶は天災、兵災に打ちひしがれて北支九千萬の大眾は慘憺たる死線の真上を彷徨してゐる時、程硯秋の藝が如何に至妙であるとはいへ、前門の姑娘の妖しき媚態が舊に復しつゝあるとはいへ北京の醸し出す雰圍氣の何と長閑に平穏である事か云々。【寫真の女裝は程硯秋、男裝は尚小雲】

    滿鮮視察記(七) 海外遊記

    座談會が終了しますと、待つてましたと許りに生徒が押し寄せて參りまして、晩秋の夜の更けるのも忘れて語り續けられます。明くれば午前六時の起床で、勇ましいラツパの響に生徒だちは本部の廣場に整列して朝會が始まる。曉の冷氣が迫つて、視察して居る私達も緊張を覺えます。
    君が代の合唱、國旗の揭揚、勅語の奉讀、禮拜をすまして次に、
    我等ノ義勇軍ハ天祖ノ宏謨ヲ奉ジ心ヲ一ニシテ挺進シ身ヲ滿洲建國ノ聖業ニ捧ゲ神明ニ誓ツテ 天皇陛下ノ大御心ニ副ヒ奉ラシコトヲ期ス
    といふ信條を朗唱し日本體操をはし、最後に
    (一)
    われらは若き義勇軍祖國の為ぞ鍬とりて萬里涯なき野に立たん
    いま開拓の意氣高し
    (二)
    われらは若き義勇軍祖先の氣魄亭けつぎて
    勇躍夙にさきがけん
    打ち振る腕に響あり
    といふ唱歌を歌ふのです。折から
    地平線を離れた太陽は朝風にはためく國族に清らかな旭光を投げかけて居る。實に嚴肅な光景です。東南はるかに皇居を拜するとき、彼等の眼は異樣に輝き真劍な目差を見ることが出來ます。彼等少年の胸には真劍な理想ひが滿ちくて居るに相違ありません。
    朝食が終ると、朝の食事を濟まして、夫々作業場に行きます六中隊の建設地は本部から四粁あまりもありまして、此の間には農耕班が開拓をやつて居ます。そこには轟々と響くエンデンの音を立ててトラクターが丘を越え濕地を渡つて猛然と驀進して行きます。
    此の
    怪物の姿は少年達の血を沸かすに十分です去年來た先遣隊の生徒が得意顏と運轉臺にすわつて、悠々と進めて行きます。少年達には此の姿が英雄のやうに見えるに相違ありません。內地の小さな農村から來た彼等には正しく大きな驚異にちがひありません。一度此の怪物が唸ると忽ちに曠野は沃野と一變して仕舞つて、美しい土壤美が展開して來ます。實際目のあたり此の大規模な開懇を見ては、誰か二度とチツポケな
    內地の農業に歸る氣になれませう。かうして少年の心は日一日と雄大になつて行くのであります(續く)

    陸海軍將兵に對する 感謝、敬弔決議案可決 再開の眾院本會議年內の議事終る 頭條新聞

    【東京二十七日發同盟】眾議院本會議は午前十一時五十五分再開常任委員選擧の結果を書記官より報告した後各部に於て部長及び理事の互選を行ふため午後零時十三分再び休憩
    【東京二十七日發同盟】二十七日の眾議院本會議は午後二時六分三度開會
    小山議長 本日參內勅語奉答文を奉呈致しました所重ねて優渥なる勅語を賜はりました
    とて全員起立裡にこれを奉讀し次で日程に入り
    一、陸海軍に對する感謝決議案
    一、戰死者に對する敬弔決議案を一括上程、先づ感謝決議案の趣旨說明のため
    頼母木桂吉氏(民政)登壇 劃時代的の聖戰が始まってより既に一年有半此間陸海軍將士は超人間的勞苦に耐へ蔣政權の重要據點を悉く我手に收め赫赫たる武勳を建てたことは國民の感謝感激に堪へざる所で眾議院は茲に院議をもって陸海軍の將兵に對し滿腔の感謝の意を表さねばならぬ
    と述べて降壇、次で敬弔決議案の趣旨辯明のため
    若宮貞夫氏(政友)登壇 今次聖戰に參加し赫赫たる武勳を擧げ貴き犠牲となった將兵に對しては國を擧げて敬弔の念切切たるものがある、今や東亞建設の前途は尚多難なるものあり犠牲になられた將兵は實にこの光明に身をもって點ぜられたのであって聖戰の將士であると共に平和の戰士である、眾議院は茲に東亞平和の人柱となられた名譽の戰士に對し敬虔の意を表せねばならぬ
    と結べば滿塲より拍手起る、斯くて兩決議案の採決に入り全員起立萬雷の如く拍手裡に滿塲一致をもってこれを可決、更に戰死者の英靈に對し敬弔の意を表するため全員一分間の默禱を捧げ終って謝辭を述べるため
    板垣陸相 登壇 眾議院の懇篤なる決議に對し全陸軍を代表して謝意を表する決議の趣旨は直ちに前線將兵に傳達すると共に戰死者の英靈に奉告する。
    米內海相 滿塲一致の院議をもって同情ある決議を賜はり感謝に堪えない御決議は直ちに全海軍將兵に傳達し英靈に奉告する時局は尚多端なるも海軍は奮勵努力國民の要望に副ふ覺悟である、
    と夫夫挨拶を述べ次で小山議長より小泉又次郎(民政)三土忠造(政友)兩氏に對する長年在職議員表彰の件を議塲に諮り滿塲一致これを可決これに對し小泉、三土兩氏より夫夫謝辭を述べ最後に議長より
    例年通り一月二十日まで休會する
    旨を宣し年內の議事全部を終了して午後二時四十分散會。

    社說 華僑に對する指導方針 社說


    東亞新秩序建設の基本問題たる日支國交調整に關する帝國の根本方針は去る二十二日近衞首相談の形式を以て中外に闡明した重大聲明通りである。卽ち東亞新秩序の建設は共同目的に聯がる日滿支三國の結合によつて達成されるものであり、殊に支那に於て右建設に關する帝國の真意を理解して之に協力せんとする具眼の士とは相携へて建設に邁進するの態度を明示したのである。今日まで日支兩軍が敵味方となつて戰つて□來たが、それ□勿論支那民眾□敵とし、且つ領土的野心あるわけではない。況や今後東亞新秩序の長期建設は親愛なる友邦として、將又曾ては世界文化史上に幾度か炬火を點じた偉大性を有つ民族だと認め、支那具眼の士には建設の大業を分擔して貰ふべき秋である。帝國□今や國を擧げて新政權に參加せし、支那具眼士のを指導援助し、民眾をして自ら蔣政權に見切を付けさせるべくあらゆる宣傳工作をなして東亞の正しき認識を與へつつあるしかも一衣帶水に在る本島が地理的民族的便宜により、新秩序建設の一據點として貴き使命を課せられてゐることも亦見逃すことは出來ない。

    本島には華僑が四萬許り居て、それが支那事變後支那領事館引揚と同時に引揚げるべき性質のものが、母國の戰禍を他に安じて各各の業に樂んでゐるばかりでなく、進んで全島の華僑を糾合して臺北に臺灣華僑新民總公會を設置し、全島主要都市三十一箇所に新民公會を結成して蔣政權を離脫、新政府を支持す□と同時に、日本政府の對支聲明に絕對的賛意を表明したのである□同會の組織乃至□その目指す目標に對しては、固より異論ある筈はない。今同會の構成分子を見るに福州、廣東、泉漳州、興化、溫州各地の人より成るも、指導原理を與へるだけの卓越せ□リーダーなきため、殆んど無為無作に終始してゐる又假りに何かなさんとすれば、枝葉に亘る小競合や役員の爭ひをして大綱を誤つたり、統一を缺いたりして、折角の組織も有名無實に終ることを憂ふるものである。

    然らば督府當局は前記の如く東洋の特殊性に置かれてゐる臺灣華僑に對處する方針、又は之を取扱ふ主管官廳はと云へば甚だ明瞭を缺いでゐる觀がする。府官制には外務部で外國人に關する事項、府保安課で外國人取締りの外には之と云ふ主管課はない。又最近情報部で島民に正しき時局認識を與へ、刻刻の戰況を報ずる片手間に華僑に對し東亞の新情勢並に戰局を正しく認識させるべく、種種工作を施してゐる。要するに華僑に對して確たる指導精神なく統一的取扱がない。府に於ても、州に於ても將又各警察署に於ても夫夫取扱を異にし、何等の連絡はないやうである。事變前は此等華僑を殆んど問題にしてゐなかつたが、現下の如き日支兩國の國交調整の新情勢の下に於て、最早島內四萬餘の華僑に對しては從前通り等閑に附すべき性質の問題ではなく、相携へて東亞新秩序建設の一助たらしむべく積極的に連絡統一ある指導的方策を講ぜねばならないと信ずるものである。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(十)/陳逢源 海外遊記

    京戲の溫床(下)
    北京は金持よりも細民の多いところである市民百五十萬人の少なからぬ部分が失業者であるから、北京人の經濟力が極めて貧弱であるにも拘はらず、京戲の入場料だけは多少無理しても苦面するから其の發達を促がしたのだ。一例を擧げれば防寒用の毛皮被服類を質に入れてまでも芝居を見たいのが北京人一般の氣風なのである。最も入場料は比較的に安い。舞臺前面のいゝ場所は大抵入塲料一圓遊興稅を加算した一圓十五錢しかなく、惡い塲所は四五十錢位だらう。上海黃金大房院のいゝ塲所は三圓だから約三分の一に當るだかくの如く入塲料が安いからたやすく大眾化され、それに北京人の特別嗜好と相俟って京戲即ち皮黃劇をして今日の昌盛を齎らしたのである。
    支那劇の女形は男でも女でも別に差支へはないが、特に男伶の技巧が女伶に比してよりよく女の心理狀態を無遠慮に表現し得るので、最もよく觀客のエロチックな好奇心を捉へる事が出來る。殊に歌も女と同じ音色を圓潤流利にうたふので一種の快感を叫び起される。從って男伶の女形は概して支那劇の花形となり得る可能性がある。
    四大名旦の尤たる梅蘭芳は何んといっても現代支那劇の第一人者であり、彼の歌と技巧に陶醉する事を梅毒に感染したといはれる位である。程硯秋は正旦として梅の壘に迫ってゐるし、又其の歌のリズムも程腔といはれ、老生の馬連良の馬腔と並び稱せられてゐる。故人となった譚鑫培の老生としての譚腔は一時北京の劇界を風靡したから、梅蘭芳の梅毒に對して譚迷といはれた程であった。荀慧生は特に女の繊細な心理をよく表はしよく艶かしい細膩たる所を盡してゐる點が寧ろ梅、程の及ばざるところだと評せられてゐる。青衣及び花旦が彼のはまり役である、尚小雲は彼の聲調の透徹してゐる事によって鐵喉と推獎され、四大名旦の一人として押しも押されぬ地歩を占めてゐる其の他老生の譚富英、淨の金少山、武生の李夢春、紅生の李洪春、花旦の張君秋、女伶の吳素秋等も北京の名伶としてそれぞれ多くのファンを持ってゐる
    支那劇は歌劇であるから歌が主であり、從って從來は背景たる舞臺裝置が極めて簡單であったが、最近となって新奇怪異な背景を佈き 且つ電氣の照明をも應用せんとする傾向がある即ち在來は音樂を主とする聽戲であったが それに眼をも樂ませようとする看戲を加味せんとする事となった。私の見た中和戲院に於ける尚小雲の編み出した青城十九俠等はかゝる背景を使用して一般觀客の喝采を博した京戲としては邪道であるか、何うかは一概に論ぜられないが、一つの畸形的發展として認めない譯には行かない。
    尚、京戲の經營者は四大名旦を始め馬連良あたりは各々主役俳優であると共に其の資本家なのである。彼等は各々彼等を中心として適當なはまり役を定め北京第一流の劇場に限って出演し其の收入の內から劇場の惜料と他の俳優の給料及び一切の費用を差引いた殘りが彼等の所得となる。即ち京戲の資本關係は尚封建時代の殘滓として十二分に殘されてゐる從來服裝以外に舞臺の設備に金が殆どかゝらなかったのがかゝる封建資本の存在を許して來た主因であらう
    支那人は芝居が好きであるのみならず、なす事、する事が頗る芝居染みてゐる事が既に國民性になってゐる。支那の哲人劉大聲は曾て彼の友人にかう申してゐる。
    あらゆる事の中で我々が最も真劍になるのは役人にならうとする事であって最もつまらないといはれるのは芝居の役者になる事だ。だがかやうな考へは皆馬鹿げてゐると思ふ舞臺の俳優達がそれぞれ現實の人間だと信じながら歌を唄ひ泣き罵りあひ、冗談を飛ばしてゐるのを幾度か見た事がある。いや、嚴めしい役人に扮して其の前に罪人らが顫へてゐる時でさへ、唄ったり、泣いたり笑ったり、罵ったり、冗談を飛ばしたりして兩親や妻子を養はねばならぬしがない俳優に過ぎぬ事を悟らないのだ。あゝ自分の腸と五官(即ち本能と感情)が悉く芝居に支配されるまで自分は實は役者だといふ事を覺らないので、ある芝居ある役割ある科白のあるアクセントやある型に一心不亂になってゐる人々が此の世には澤山あるのだ(寫真の立ってゐるのは荀慧生屈んでゐるのが梅蘭芳)

    滿鮮視察記(八) 海外遊記

    建築班の樣子を見ますと、土を盛つて地行をつくるもの、柱を建てるもの、棟木を渡すもの、材木の皮をはぎとるもの、壁を塗るもの、少年達は一心不亂に作業を進めて居ます。僅か十六歲や十七歲のいたいけな少年が槌を振りこてを使つて居る姿は、とても淚ぐましいまでに聖なる姿であります。恐 らく建築には素人であらうに、いとも器用にやつてのける、
    訓練の力は恐ろしいものだと思ひます。かうして素人少年の大工さんによつて立派な本建築が整然と出來上つて行くのであります。中隊本部には炊事場とか浴室とか病院とかいつた特別な建物が出來つゝあります。これ等はみな可成り堂々たるもので完成されたら勿體ないやうな設備になるだらうと想はれました。此のやうな特別な建築には滿人の本職の大工さんが、從事してゐます此の日の夜は
    第九中隊に居る
    岡山縣出身の義勇軍生徒が來て吳れて、物語りは前夜にも增して盛んでありました。生 徒たちの誰もが同じやうに一番樂しいことは內地からのたよりを手にしたときだと申してゐました。そして新聞とか雜誌とか其の他印刷物で內地の有樣や東洋の時局の樣子などが知りたいが、それ等の讀み物がないと言つてゐました。心の尊い糧となるこれ等の讀物はどんどん讀ませてやりたい氣持が一ぱいでした。內地へ歸つたら何を措いても彼等を勵まし、慰めるところの慰問文は是非送らねばならぬ、それて雜誌や其の外の讀み物をみんなで送つてやりたいと思ひました。これは內地に居るものの義務といつてよいものです。六日の朝は勇ましい少年達と別れて歸らねばなりません。然も、たつた一日に
    一回發車する午前七時の列車に間に合ふには中々の難事です。もう五時頃から生徒たちが食事の用意をして吳れる、夜來降つた雨で、外は全く泥濘の道となつてとても步くことは困離です。訓練所の厚意で急ごしらへの橇が作られ、それをトラクターで挽かして驛まで送つていたゞいた。曉の暗を破つて一行を乘せた橇を挽いてトラクターが進む、生徒達は兩手を舉げて、萬歲を唱へて送つて吳れる。薄水が張つてゐる上を悠々と進む、感激のお別れでした。そして茫莫とした途を驛まで進むのでしたがあの滿洲事變のとき匪賊の大將として有名であつた
    馬占山が此處に根據をかまへてゐたものですが、遂に我が軍の為に橇に乘つて逃げ去つた當時のことを思ひ出しました。一同のものは見えずなるまで本部の土盛りの上から日章旗を振つて吳れる健氣な少年達の幸福を祈りつゝハルビンに引き返しました。
    (續く)

    山西の殘敵を襲擊 閻軍、共軍大部隊に 巨彈の雨を降らす 頭條新聞

    【臨汾二十八日發同盟】閻錫山軍膺懲戰に適切なる協力を為しつつあるわが國枝飛行部隊は二十七日大寧(山西西南部)を空襲し敵軍事施設及び地上に密集せる大部隊に爆撃を敢行大打撃を加へ又一方○○機編隊は靈石西方文字原附近に集結中の共產軍第百十五師約二千に巨彈の雨を降らせこれを潰亂せしめた尚離石を中心に執拗なる蠢動を續けつつあるこれら共產軍第百十五師は遠く大寧を最近南方より移動中であつたものでわが國枝部隊により粉碎されたものである
    【臨汾二十八日發同盟】山西西部の閻錫山麾下部隊掃蕩戰に協力し吉縣、大寧方面に連續的爆撃を敢行しつつある山瀨爆擊隊は二十八日午前十一時又復大寧、吉縣を空襲、敵旣設陣地及び密集せる敵部隊に猛爆を浴せこれを潰亂せしめた。尚二十七日午前山瀨部隊の中村、小森兩部隊は各各○機を以て山西省石樓及び隰縣を急襲し雪崩を打つて潰走する敵を撃滅、退路を遮斷して敵の北方への遁走を斷念せしむるとともに地上○○部隊に協力、多大の戰果を收めた。

    社說 昭和十三年を送る 社說


    日支事變の第二年たる昭和十三年は正に暮れんとしてゐる。顧みれば本年中は昨年末の南京陷落に引續いて徐州、廣東及び武漢三鎭たる國民政府の重要據點を悉く攻略し、事變が思はぬ廣範圍まで擴大した。それと同時に我が政府は經濟上に於ける各種統制の强化を圖り、以て長期應戰及び長期建設の姿勢を取つたのである。此の間蘇聯とは張鼓峯の事件を惹起したが、諸外國との關係が大した摩擦を起さずに濟んだ事は我が外交の處置がよろしきを得た上に、我が國力の意外に充實した事を中外に示したからである。

    支那事變に對する善後處置は一方に於て蔣政權を相手にせざると共に臨時、維新兩政府及び其の他の地方政權を盛り立て以て東亞協同體の建設に其の第一步を踏み出したのであるから、其の成否は今後の努力如何による事は勿論の事、銃後の國民が擧げて堅忍不拔の精神を發揮しなければ到底所期してゐる東亞永久の平和を確立する事が出來ないのである。我が臺灣も時局の進展に伴ひ帝國の一單位として本島人方面に於ても軍夫、農業義勇團等の出征によつて幾分たりとも帝國臣民としての義務の一端を荷つた事は衷心より榮幸に感じてゐると共に、銃後の守りとして戰時に必要なる兵糧の供給を豐富ならしめ、且つ金の賣却運動を起して聖戰に協力して來たことはいささか銃後の任務を果し得たわけである。

    わが社は又本島言論界の一翼として此の重大なる時機に際し國策の一線に沿ふて出來る限りの努力を盡して來たのであるが、今後とも益益我が戰果をして意義あらしめるべく更に一層の努力を要すべきは言を俟たない。殊に支那事變は既に一面に於て建設期に入りつつあるのであるから、從來の如く單に戰爭に勝つためのあらゆる手段を訴へる以外に、真に東亞平和建設の大事業の協力をなすべき秋に到達したので、此方面に對しても新聞人としての使命に向つて更に邁進すべき事を痛感する者である。

    勿論本島各方面とも東亞の新形勢に卽應して漸次改革を要すべき點も少なくないから、明年度からは從來の如き戰爭に對する興奮から更に一步を進めてより冷靜により果敢に新聞人としての使命を更に果すべきであると信ずるのである。卽ち帝國が東亞に對して負ひつつある大使命に對して出來る丈早く達成せしむべき建設的方策を臺灣として何かをなすべきかを更にハツキリと摑んで文章報國の一端を負けなければならない。茲に多難たる昭和十三年を送るに際し、更に新たなる氣持を以て希望多き新春を迎へんとするものである。

    北京の交響樂 東洋文化の大殿堂(完)/陳逢源 海外遊記

    柯政和其の他
    北京で各方面の人々に逢ったが、中には新中國の建設に直接間接に携ってゐる日支兩國の人士もあって、それ等の意見を差し當り紹介する事を遠慮しなければならないから、先づ現在北京の教育界で活躍しつゝある親友柯政和君を簡單に紹介したいと思ふ。柯君は東京の音樂學校卒業後間もなく北京へ行ったのはもうかれこれ十七八年も立ったらうが、終始一貫其の絕大な精力を發揮して教育方面に努力せられ、現在北京師範大學から改稱した北京師範學院の教頭として新支那の教化方面の人物を養成し、又十個年の苦心を以て支那小學校の音樂教科書を著はし、既に教育部の認定を經て支那の文化に貢献してゐる。柯君は其の他新民會の幹部及び日本人に對してラヂオによる北京語の講義を引受けてゐるのみならず、日本の音樂家が北京へ渡來すれば演奏會とか、其の他いろいろの世話をするので頗る多忙の身である。今や教育界に於ける柯君の存在は押しも押されぬ大物で、事變後間もなく北京に於ける大學教授團の一員としてワザワザ東京へ赴いて兩國文化的提携のために盡した。
    柯君の意見としては自分は教育家の天職以外に日支兩國の利益になるような事しか關係せず若し支那の利益にして日本の不利、又は日本の利益にして支那の不利になるような事は一切手を控へたいといってゐるが、かゝる態度こそ始めて真の日支親善の楔となり得るのだ、柯君はよく臺灣青年の面倒を見る。柯君の世話によって教育界に入った人も少なくない。又柯君の奧樣は日本人であって北京某中學校の日本語教師として夫婦共稼ぎの模範を示してゐる。
    杉山平助が曾て「主婦の友」に於て「支那人と結婚するな」といふ意見の發表したのを見て柯君は頗る憤慨し直ちに同じ「主婦の友」に反駁文を書いた程、それ程柯君自身の家庭は圓滿極まるものだ。私も東安市場の樓上にある支那料理に招ばれた時は夫婦づれであった。其の前私は柯君から天壇及び神農壇の見物に案內され、中食は正陽門外の正陽樓に於て烤羊肉と稱する緬羊燒と蟹料理の御馳走になった事を今でも思ひ出す。二百年以上の老舖たる正陽樓の煤黑んだ中庭に於てジンギスカン鍋で緬羊肉の素燒を食べた時は流石にうまいものだと思った。烤羊肉は北京の燒鴨と共に旅行者の是非とも試みなければ御話にならない名物なのである。
    北京では柯君の外に大分張我君の世話になった張君は現在北京大學の日本語教授として令名高く、彼の著はした本が日本語教授の臺本に使はれてゐる。張君は又日本小說を翻譯して支那文壇に紹介せられた功績をも沒すべからざるものがある。日支親善の映畵として多大な好評を博した「東洋平和の道」の舞臺監督の一人として隱れたる力を添へた事は餘り知られてゐないが實は私は其の映畵公司の事務所に於て二週間以上も厄介となり又私の支那及び北京に關する智識は大分張君の示唆に負ふところが少なくない。
    北京で逢った母國人の內で村上知行に關し一言なかるべからざる氣がする。村上君は支那人の妻を娶って北京に十年も頑張ったから、最早一通りや二通りの支那通だけではない。殊に村上君は社會的から見た支那觀はなかなか銳いところがあり杉山平助の如く北京飯店に泊り込んで每日ダンスホールで支那人のダンサーを相手にして遊びながら矢鱈に支那を論ずるとは固より同日を以て論ずべきものではない。試みに村上君の著書「支那及び支那人」と杉山平助の「支那と支那人と日本」とを對照して見よ。前者は村上君の自らいってゐるように今後尚二三年の生命があるだけではない。十年や二十年の生命はあらうが杉山平助の著書は恐らく一時的際物ではないかと思はれる程淺薄極まる支那觀であった。
    村上君はもう二三年立たなければ私の支那に對する意見が一般的に取上げられないから、今では糊口の道として三國誌の日本譯をやってゐると苦笑した。とにかく北京一隅に燻って貧乏と闘ひながらコッコッ研究せられつつある村上君も見逃すべからざる一つの存在であらう。(終)【寫真は新婚當時の柯政和君と柯夫人】
    附言、北京、北支、滿鮮に關して書くべき旅行記は未だ大分殘ってゐるから、新春より更に筆硯を新たにして之を續くつもりである。

    一般豫算綱要(明年度) 廿八日兩院議員及び 關係方面配付す 頭條新聞

    【東京二十九日發同盟】政府□二十八日貴眾兩院議員其他各□係方面に對して昭和十四年度□般會計豫算綱要を配付したが其の內容要點左の如し(單位千圓)
    昭和十四年度一般會計豫算綱要支那事變其後の推移に鑑るに昭和十四年度に於ては前年度に引續き國家各般の施設は事變目的遂行を目標としてこれに集中するの要あるのみならず更に一層これを強化すること緊切なり依つて昭和十四年度歲出豫算に於ては事變關係施設は出來得る限りこれが充實を期し其他の諸經費に至りては真に緊急差措き難きものの外計上を見合すこととし又既定經費の減額に努め因つて得たる財源はこれを右事變關係施設に振向くることとせり次に歲入豫算に於ては軍需產業等の殷賑に基く租稅收入の增加其他を計上し尚不足する部分は從來の如く公債財源をもつて補填することとし大體左記に依り昭和十四年度豫算を編成せり
    一、銃後對策に關し必要なる經費を計上せり
    一、生產力擴充に關する經費物資需給調整に關する經費輸出增進に關する經費、馬政計畫實施に要する經費、滿洲移民に關する經費、民間航空及び防空に關する經費等現下の時局に鑑み緊要なる經費を計上せり
    一、近時頻發する水害に鑑み治水に關する經費を增額せり
    一、今次事變等に伴ふ豫算超過又は豫算外支出の必要に應ずるため國庫豫備金を增額せり
    一、節減及び繰延に依る節約額並に部隊及び艦船の出征等に伴ふ經費の減少額等ありしため旣定經費に於て相當の減額を示せり
    一、支那事變特別稅法の制定及び臨時利得稅法の改正に基く稅收入の增加額並に煙草値上等に依る專賣益金の增加額は前年度通りこれを臨時軍事費財源として繰入るることとせり
    明年度歲入歲出豫算總額
    △歲入
    前年度豫算額比
    臨時部  一、三二一、八二五 增 一一、◯六六
    普通歲入 四二八、四七◯ 增 一一、◯六六
    公債金  八◯九、一九五 減 九八、八六六
    前年度剩餘金繰入 八四、一六◯ 增 八四、一六◯
    合計  三、六九四、六六六 增 一八◯、一四五
    △歲出
    經常部  一、九六二、九七七 增 一九五、五◯一
    臨時部  一、七三一、六八◯ 減 一五、三五六
    合計  三、六九四、六六六 增 一八◯、一四五
    軍事扶助費、軍事援護諸費、傷痍軍人保護諸費等の銃後對策に關する經費の新規增加額は九千七百八十萬圓にして今茲に各省所管別、額を示せば左の如し
    內務省所管 六九四
    文部省 二◯◯
    司法省 二一六
    農林省 一、七五三
    商工省 七六一
    遞信省 九、五一一
    厚生省 八四、七四三
    生產力擴充に關する經費、物資需給調整に關する經費及び輸出增進に關する經費の新規增加額並に各省所管別金額左の如し
    生產力擴充に關する經費 物資需給調整に關する經費 輸出增進に關する經費 計
    外務 ————一、三◯六  一、三◯六

    內務 一五、九九五     三、六九七        三八一   二◯、◯七三

    大藏 五八八        七一五          ——一、三四◯

    司法 ——一三六         ——一三六

    文部 四、七七六     ————四、七七六

    農林 九、三一二      三、六二一        七、七四一 二◯、六七五

    商工 二二、四八四     四、六四四        八、三三七 三五、四六七

    遞信 二、七四八      ——二五◯   二、九九八

    拓務 五九八        四一          二一八   八五八

    厚生 ——三九九           ——三九九

    合計 五六、五◯五     一三二五七       一八、二三四 八七、九九七
    明年度に於て歲出豫算の財源たるべき公債は八億九百十九萬五千圓にして其の內譯左の如し
    震災善後公債  四、四二八
    道路公債    八、九七四
    歲入補填公債  七九五、七九二
    計八◯九、一九五
    十四年度で一般會計より臨時軍事費特別會計へ繰入るべき金額は三億五千百九十二萬三千圓にしてその算出內譯左の如し。
    支那事變特別稅法の制定に依る租稅收入の增加  二六七、四六四
    臨時利得稅法の改正に依る租稅收入の增加  七四、六◯一
    煙草及び酒精の値上に因る專賣局益金の增加  九、八五八

    禹門口に追詰め殲滅 掃溜戰術と命名され わが晉西作戰の白眉 頭條新聞

    【臨汾二十九日發同盟】三日三晚に亘り標高千四百メートルの山岳地帶に零下二十度の酷寒を克服し東方及び北方より山岳中の敵部隊を壓迫禹門口附近にこれを誘導して一氣に潰滅せしめた捕捉殲滅戰が掃溜戰術と命名され今次作戰中の白眉として山崎、中山、今、細川各部隊の武勳を物語つてゐる前面の敵陝西第二十七路軍、山西教導第二師の一部など合せて約四千二十四日夜密かに河津を出發したが各部隊は紫金山山麓の敵陣地に對し東西に展開二十五日早朝南北三里に亘る山岳を西へ幾重にも構築された敵ペトン陣地に對し猛攻遮二無二これを撃破して北進西坡鎮の第一線に到達するや直ちに西方に鋒先を轉じ各部隊は峻嶮な山岳中の三道路を西進隨所に頑強に抵抗する敵陣地を虱潰しに粉碎二十六日深更黃河左岸南北の線に進出今部隊先づ船窩鎭を占領するや引續き中山今兩部隊は敗敵を追つて黃河對岸よりの猛射を浴びつつ二十七日早朝より一路南方禹門口に突擊を開始山崎部隊もこの時禹門口東方一粁の神前村方面より敵必死の抵抗を排擊しつつ禹門口に肉薄我が急追に追捲られた約四千の敵大部隊は雪崩れ打つて禹門口及びその南方黃河の河原に逃込み右往左往し對岸よりする自國督戰隊の射撃に黃河を渡河して退却することも出來ず全く混亂に陷り東北兩方からの掃溜戰術見事この一點に敵を追詰めて仕舞つた時に二十七日午後三時この時待機中の我が砲兵隊一齊に猛砲を浴びせ忽ち敵を殲滅した